太田述正コラム#5870(2012.11.27)
<陸軍中野学校終戦秘史(その7)>(2013.3.14公開)
 「小野田・・・寛郎は・・・三男で、長男の敏郎・・・は小学校時代から「神童」といわれた秀才であった。・・・和歌山中学の四年から一高、帝大と秀才コースをたどって医学博士となった人物である。・・・
 次男も頭は悪くなかったが、多少家庭に反抗気味で、ぐれてい<て、>・・・和歌山中学より格のさがった海南中学に学んでブラジルへ行った。・・・三男の寛郎は・・・海南中学にはいると、剣道ばかりやっていて、あまり勉強しようとはしなかった。・・・
 それでも・・・海南中学・・・卒業のおりには準優等の「進歩賞」をもらっている。・・・
 <そして、>自らすすんで海南市・・・の田島洋行に奉職した。田島洋行は、和歌山県下でも有数の漆問屋で、漢口に漆買付けのための支店をもっていた。寛郎は間もなく、<1939年に>この支店詰となって大陸へ渡った・・・。・・・
 彼が、和歌山の第61連隊に入営したのは、<1942>年の12月10日である。<彼は、在支部隊在籍中に>・・・幹部候補生<となり、>久留米第一予備士官学校<に>入学<した。>・・・
 <そして、選ばれて、更に、>陸軍中野学校二俣分校<に入学した。>・・・
 レイテに敵の上陸したのが<1944年>10月12日<(注14)>。それまでは、中野の本校での教育まがいの、精神面や諜報面の教育をしていたが、この時点でがらり内容が変わった。殺傷、破壊、斬り込みなどに重点をおいた。いわゆるゲリラ戦術の教育で、・・・11月に入ると、・・・歩兵<の場合>・・・戸外での訓練が多くな<るとか、>・・・兵科によって多少、教育内容も変わってきた・・・。・・・
 (注14)10月20日の間違い。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%86%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
 各兵科の連中の寄り合い所帯だったから、教官に教えられることよりも・・・互いに教え合うことが多く・・・しかも24時間、一緒に生活しての教育だから、期間は3か月でも、実際には6か月、7ヵ月の訓練をうけた以上の成果があがった・・・。・・・
 フィリピン行きの命令をうけたのは、<小野田を含め、>43名であった。・・・
 <フィリピンの>第14方面軍情報部・・・<は、>小野田を残置諜者ではなく「ゲリラ隊長」として・・・ルバング<島に>・・・行くように、命令を変更したものではないか・・・。・・・
 ルバング島<へ>・・・の米軍の上陸は、<1945>年の3月1日・・・に開始されている。・・・
 <1945>年の8月15日に戦争は終わったが、ルバングでは、それを知るすべがなかった。・・・
 <1946>年3月末までの捜索で、結局41人が出た。後にまだ小野田少尉と島田伍長、小塚、赤津の両一等兵の4人が残っていることはわかっていたが、・・・捜索を打ち切った。・・・
 実際は、・・・山をおりることをすすめたが、小野田少尉は、
「我々は特別任務をうけているから残る。君たちは山をおりたまえ」
 といって、ついにきかなかった。・・・
 <1974>年2月に冒険家の日本人青年鈴木紀夫が小野田と山中で出会い、命令がなければ投降するわけにはいかないとの言が日本に伝えられ、3月に上官だった谷口義美元少佐が山中に入り、小野田への命令を解くことで、やっと彼は投降した。」」(423~426、434~439、441、457、460、467、477、530~531)
→小野田少尉の事例から、教育というものは長さ(量)が問題ではないということと、同僚学生からどれだけ相互啓発される教育環境であったかが重要だ、ということが良く分かります。そして、教育が、一生を規定すると言っても過言ではないことも・・。(太田)
 「<1944>年8月、フランス本国ではペタン政権が崩壊し、ド・ゴール将軍が・・・仮政府をつくった。・・・仏印総督・・・<のジャン・>ドクー・・・海軍大将<(注15)>・・・は、・・・仮政府無視の態度に出たのである。・・・
 (注15)Jean Decoux(1884~1963年)。仏印総督:1945年7月~1945年3月9日。仏海兵卒。
http://en.wikipedia.org/wiki/Jean_Decoux
 親日的なドクー総督は次第に力を失い、反日派のモルダン将軍系が勢いを得て、仏印軍は公然と日本軍との戦闘の場合の演習まではじめた。・・・
 そこで日本軍は・・・<1945>年3月9日、<仏印を事実上日本の支配下に置く>要求書を・・・しめした・・・。・・・
 そして、総督の拒絶にあうや、<日本>軍・・・は、ただちに行動を起こし・・・<戦闘の後、>全仏印軍を武装解除したのだ。・・・ 
 <この明号作戦を受け、>南部仏印<では、>・・・越南国《ベトナム》、<次いで>カンボジア、ラオスが、それぞれ独立を宣言し・・・た<(注16)>・・・
 (注16)「3月9日の作戦開始直前、日本軍は、フランス保護国だったベトナム・ラオス・カンボジアの各皇帝・国王に、武力行使決意と「独立を宣言することが可能である」旨を連絡する使者を発していた。これを受けて、ベトナム阮朝の保大帝(バオ・ダイ帝)は、フランスとの保護条約を破棄し、・・・ベトナム帝国(越南)樹立を3月11日に宣言した。カンボジアのノロドム・シハヌーク国王も3月13日に続いた。ラオスのルアンパバーン朝のシーサワーンウォン国王は、当初はフランスの敗北を信じなかったが、日本軍部隊の展開を見て4月8日に独立宣言をした。・・・この年、ベトナム北部は洪水や異常低温による不作で食糧不足が深刻となったうえ、連合軍の空襲による鉄道破壊等もあって南部からの食料輸送が滞り、多数のベトナム人が餓死した。・・・ホー・チ・ミンは同年5月、ヴォー・グエン・ザップ(武元甲)将軍を司令官とするベトナム解放軍を発足させ、各地で民族解放委員会を組織して保大帝のベトナム帝国と対峙した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E5%8F%B7%E4%BD%9C%E6%88%A6
 ドクー施政下で1945年に100万人超が餓死したとされるが、これは、連合軍による鉄道網の破壊に加えて、日本軍による船舶の徴発(requisition)が原因だという指摘がなされているところ、一義的にはフランス植民地当局の責任であり、実際、当時のベトナム知識人達は、もっぱらドクー施政を非難している。
http://en.wikipedia.org/wiki/Jean_Decoux 前掲
 そもそも、日本に船舶徴発権限があったかどうかは疑わしい。
 この悲劇は、ベンガル大飢饉(ジェノサイド)と並ぶ、先の大戦中に行われたところの、欧米帝国主義列強・・ベンガルに関しては英、北部仏印に関しては仏と米・英・・による2大蛮行である、と断じてよかろう。
 <8月15日の>日本の降伏で、ふたたび仏印がフランスの支配下におかれることを恐れた彼らは、終戦と同時に武装して、日本の手からフランス軍に仏印が返還される前に、都市の重要施設を手に入れようと動き出したのである。・・・そこでフランス側では、あわてて日本軍の武器引き揚げを中止すると、今度は「武装して暴徒を鎮圧せよ」という新しい命令を出し、日本軍に協力を要請して来たのである。・・・
 日本はむしろ、フランスを押さえる意味もあって、安南人には独立を呼びかけ、独立を援助していたのだ。したがって安南人にとっては、日本軍はいわば同志みたいなものであるから、日本軍のいうことはきくが、フランス軍のいうことはきかない。・・・
 <例えば、何万トンもの米が積みこまれていたサイゴンの三井倉庫をフランス軍が警備していたが襲われたため、警備を日本軍に交代すると平穏となり、その後フランス軍がまた警備するようになると、再び襲われた。>・・・
 <また、>仙台第2師団の一刈連隊・・・は、サイゴンからカンボジアのプノンペンに行く途中、15マイル地点にホクモンという町があって、そこに駐屯していたが、その附近はベトミン<(注17)>の独立運動が盛んだった。サイゴンに進駐した英印軍は、日本軍を使って、このベトミンの討伐を考え、日本軍とフランス軍、それに英印軍の三者合同で、デルタ地帯に向かってベトミンを追い詰め、せんめつの作戦をたてた。
 (注17)「正式名称ベトナム独立同盟会・・・<たる>ベトミンは、当初ベトナムを支配するフランス軍を敵としたが、1940年に日本軍がフランスとの合意の下に仏印に進駐した後は、日本軍も敵と見なし、ゲリラ戦を展開した。ベトミンは、日本と交戦中であったアメリカ合衆国および中華民国から資金援助を受けた。・・・明号作戦<の後、>・・・ベトナム帝国が樹立されたが、ベトミンはこのベトナム帝国を日本の傀儡政権として、対日ゲリラ活動を継続した。・・・日本が無条件降伏すると、・・・ベトミンが指導する蜂起が全土で起こり、保大帝を退位させベトナム帝国から権力を奪取した(ベトナム八月革命)。そして、日本が終戦の文書に調印した9月2日に、ベトナム民主共和国の樹立を宣言した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%9F%E3%83%B3
 <しかし、同連隊から出した一個中隊は、ベトミンに情報を与えて逃がしてやったりした。>
 ときどきどうしても撃ち合いをやらなければならない場合もあったが、そういう時にはフランス軍や英印軍へのみせかけだけで、互いに銃を空へ向けて撃つことにしていた。
 <また、ベトミンに事実上、武器を横流ししたりさえもした。>・・・
 <ただし、次のような事例もある。>
 ダラット<は>・・・標高1500メートルの高原避暑地で、フランス人の別荘が多い<ところだが、>フランス軍からの要請に<基づき、>・・・<日本の>会津若松の第29連隊・・・の第1、第3の2個大隊が、・・・警備についた・・・。・・・
 <そこへ、10月3日以降、安南義勇軍が武器や衣料品や脱走して彼らに協力する日本兵確保目当てで、何度も>おそってき<て、結構死傷者が出た>。・・・
 <女や地位を餌にした脱走勧誘まであり、日本軍からの>逃亡兵は安南だけで1000名を越えているだろう。」(600~612)
→本来敵であるベトミンにまで日本軍が肩入れしたのは、戦時中、ベトミンを支援した連合国が手のひらを返したように、戦後、ベトミン撲滅に乗り出したことへの意趣返しの面もあったのでしょうね。
 改めて、米英が、共産主義の本家のソ連と手を組み、容共の中国国民党、共産主義の中国共産党、共産主義のベトミンを支援して日本と戦い、日本を敗北させたことの罪深さを痛感させられます。
 それはそれとして、日本が先の大戦を戦ったおかげで、欧米帝国主義の息の音が止められた、ということは争い難い事実だったわけです。
 (戦後の米帝国主義マークIIは、日本帝国の全球的継承であって、欧米帝国主義の継続ではない、という私の指摘を思い出してください。)(太田)
(続く)