太田述正コラム#5872(2012.11.28)
<陸軍中野学校終戦秘史(その8)>(2013.3.15公開)
「英軍情報部は「光機関」を目の敵にした。それも、あながち無理ではない。というのは、光機関の前身が岩畔機関であり、その前は「F機関」藤原機関であった。藤原機関は、開戦前からインド工作をしていて、・・・インド独立のきっかけをつくったのである。・・・英軍情報部は進駐と同時に、その名簿を手に入れて関係者を追いまわしたのである。・・・
<そこで、「ダラットにいた中野学校出身の機関員たる我々は、>・・・ホクモンからさらに北の方のゴム園の中にいたベトミン第4師団の中へ逃げ込んだ。もちろんベトミンは大歓迎で、・・・戦闘を指導することになった・・・
さしあたっての敵はフランス軍だが、その背後には英印軍がいる。仏、英印軍を撃破しても、共産主義系のホーチミン軍と戦わねばならないから、ベトミンとしては、なんとしても戦力を強化しなければならない時であった。そこでまず、軍の指揮をとる幹部から養成することになって、山田大尉らは幹部学校(士官学校)を開くことにしたのである。
→このあたりは、当時曹長であった中野学校出身者の証言なのですが、ベトミンの他にホーチミン勢力がいたはずがないのであって、この部分は明らかに誤りです。(注18)
(注18)前に引用した、ベトミンに関する日本語ウィキペディアからだけでも誤りであることは明らかだが、英語ウィキペディア等からもう少し引用しておこう。
「ベトミン(Viet Minh)は・・・パク・ボ(Pxc Bo)で1941年5月19日につくられた共産主義民族独立連合(communist national independence coalition)だ。
<「パク・ボは・・・支那との国境から3km<ベトナム側に入ってたところ>に位置する小さな村だ。この村の近くに・・・洞窟があり、ホー・チミン(Ho Chi Minh)は、30年間の亡命生活から戻った時、1941年2月と3月の7週間をそこで過ごした。」
http://en.wikipedia.org/wiki/Pac_Bo >
ベトミンは、当初、フランス帝国からのベトナムの独立を目指してつくられた。
<しかし、>日本の占領が始まったので、ベトミンは、・・・米国とソ連と中華民国の資金援助を得て・・・日本に敵対(oppose)した。・・・
日本は、1945年8月に降伏すると、ベトミン中のベトナムの民族指導者達をフランス植民地当局に引き渡した上で、フランス軍が徴用していた公共建造物と兵器の若干の管理権を、当時、ホー・チミンによって率いられていたベトミンに与えた。
ベトミンは、600人を超える日本兵を集めることも行い、彼らは<ベトミンとともに>フランスとの戦争を1954年まで戦った。
民族諸団体がベトナムの独立宣言を行った後、ホー・チミンは、1945年9月2日にベトナム民主共和国樹立宣言を行った。・・・
べトミンは、近代的軍事知識が不足していたので、1946年6月に<中部ベトナムの>ティン・クァンガイ(Tinh Quang Ngai)に軍事学校をつくった。
日本の兵士達によって、400人を超えるベトナム人がこの学校で訓練を受けた。
これらの兵士達は、日本人の学生である、とみなされていた。
後に、彼らのうちの若干は、ベトナム戦争において、将官として米国と戦った。」
http://en.wikipedia.org/wiki/Viet_Minh
「クァンガイ陸軍中学・・・は、ベトナム独立戦争中の1946年6月1日に・・・設立されたベトナム初の本格的な陸軍士官学校である。・・・教官・助教官と医務官は全員旧日本陸軍<の中尉以下の>将校・下士官で構成された。・・・クァンガイには石井卓雄少佐によって、民兵出身の小・中隊長級指揮官に再訓練を施すクァンガイ軍政学校も設立されている。トイホア付近のナンソン村にもクァンガイ陸軍中学を模倣して、石井卓雄少佐を中心とした日本人教官によってトイホア陸軍中学が設立されている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%82%A4%E9%99%B8%E8%BB%8D%E4%B8%AD%E5%AD%A6
校長には山田大尉がなり、副校長には塔本成幸大尉を据えた。学生も、将来国軍の幹部になる連中だからというので、サイゴン大学出のインテリ青年を集め、大鋸と譜久村は教官として実戦を指導することにしたのである。実戦といっても、装備や兵器が充分の軍隊ではないから、火炎瓶の造り方とか、手榴弾の造り方、放火法など、ゲリラ戦的な教育が多かった。時には、学生を率いてフランス軍の警備地域を襲うという実地教育もしたが。・・・
→ダラットは、ベトナムの中部高原地帯の山間部に位置しており、クァンガイよりかなり南西
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%A0%E3%83%89%E3%83%B3%E7%9C%81
であるし、トイホア(トゥイホア)は、クァンガイのやや南で
http://www.apocc.org/Vietnam_1.htm
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%BC%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%83%B3%E7%9C%81
なお、ダラットからはかなり離れているので、譜久村の証言が正しいとすれば、彼の語っているのは異なった軍学校であることになります。(太田)
幾年か前、まだ南北ベトナムが戦っていた頃、ゲリラ部隊がアメリカ大使館をおそって爆破した事件があった。あれなどは、我々が教えた通りで、潜入して爆破しようなど考えてはいけない。犠牲ばかり多くて、成功の確率が少ないから、どこからか自動車を一台かっぱらって来る。それにTNT爆薬を100キロから200キロ積んで門を突破したら、建物に見当をつけてフルスピードで車をぶっぱなしてとびおりろ。車が建物にあたったとたんに大爆発を起して、容易に目的を達することができる。と教えた。それをそのままやっているし、一時アメリカ大使館を占拠した時のやり方なども、我々が教えた通り実行していた。そんなことをしながら我々は、<1946>年の3月頃までベトミンの中にいた」(譜久村正吉曹長談)」(615~616、618~621)
→大戦中に日本に敵対したベトミン、しかも共産主義勢力たるベトミンに、日本の中野学校出身者等の諜報担当者達が協力したのは、必ずしも彼らのはねあがり行動ではなく、インドシナに駐留していた日本軍の事実上の組織意思に従って行われたものであったらしいことが、上で引用した英語ウィキペディアの記述から窺えます。
譜久村が前述のような誤ったことを語った理由については、いくつかの想像ができますが、そんなことを詮索するより、鼬の最後っ屁じゃあるまいし、降伏後、日本軍が組織としてベトミンを支援したらしいのはどうしてなのか、誰かが解明してくれるのを期待すること大です。
とまれ、後のベトナム戦争で、世界最強の米軍と戦い、米軍を大いに苦しめた北ベトナム軍/べトコンの基礎をつくったのは日本であった、と言えそうですね。
(ちなみに、ベトミンがフランス軍と戦って勝利を収めた第一次インドシナ戦争で、ベトミン側の指揮を執ったのはヴォー・グエン・ザップ(Vo Nguyen Giap)等、専門的な軍事教育訓練を受けていない人々・・ザップ自身、孫子やナポレオン戦史研究を自分で行っただけ・・
http://en.wikipedia.org/wiki/Vo_Nguyen_Giap
でしたが、相手のフランス軍は、外人部隊は別格として、フランス本国兵はおらず仏領アフリカと仏領インドシナの植民地兵によって構成されていた
http://en.wikipedia.org/wiki/First_Indochina_War
ことから、練度は高くなかったと想像されるところです。)(太田)
(続く)
陸軍中野学校終戦秘史(その8)
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