太田述正コラム#0148(2003.9.9)
<スペイン・ラテンアメリカとは何か(その4)>

 カルロス一世=カール五世は、彼の父方と母方の祖父母の政治手法、就中母方の祖父母であるフェルディナンドとイサベラの政治手法を基本的に踏襲しました。
 以下、カーメンの本から該当する箇所をご紹介しましょう。(ページは、本のページ。)

 (1)カール五世の領地の行政と財政
「フェルディナンドとイサベラは様々な国<や領域>の支配者であり、支配下のあらゆる国<や領域>のしかるべき貴族を彼の使臣とした。・・<この使臣達は、>相互に意思疎通するのに何の問題もなかった。・・いざとなればラテン語を用いたからだ。・・使臣達の忠誠心は特定の国<や領域>にではなく、<この>王と女王・・にだけ向けられていた」(PP38)。
「・・<フェルディナンドとイサベラは、>財政を司る中央財政機関を持っていたわけではないし、まともな税収すらなかった。・・<彼らは>自分達のカネでは足らないときは、個々の事業ごとに・・<自分の領地ではない>ジェノアやフィレンツェ<等の>・・金融業者達と契約を結び、その支援を得た」(PP39-40)のであり、植民地の獲得にあたっても、そのような方法がとられました。
カール五世も、「スペインでも、その外でも、中央集権的な行政機関や財政機関を持っていなかった」(PP157)。
そこに植民地がからんできます。
カール五世は、「北イタリア<のほか、>・・フランドルとドイツ・・から<も>借金した」(PP52)が、それでも足らなかったところへ、「植民地から救いの手が差し伸べられた。<新大陸の>金<、更には銀である>」(PP88、285)。カール五世の晩年、スペイン人は植民地から金をスペインに持ち帰り始めました。しかし、カール五世の借金返済のため、その金は大方スペインを素通りしてスペイン以外の金融業者の手ににわたってしまい、スペインには殆ど残りませんでした。(PP89)

(2)カール五世・スペイン人・原住民
 カール五世の植民地政策そのものについても、祖父母から継承した部分が少なくありませんが、植民地形成の本格化に伴い、彼は独自の植民地政策を展開します。そして彼と植民地に渡ったスペイン人達とのコラボレーションの中から、西欧の植民地政策の原型とでも言うべきものが形作られるのです。

「国民国家が<まだ>存在していなかった<この>頃の欧州では、16世紀における植民地に関わる事業は・・個々人による一種の賭け事であり、国家的というよりは国際的な協力の産物だった」(PP37)。初期の頃は別として、「1499年の布令・・により、アメリカ<大陸>に渡ることができるのは、<(ブラジル以外では、)>スペイン人だけとされた」(PP133)のですが、「中世の社会からやってきた彼らは、信条も政治観もバラバラであり」、共通の絆といったら、スペイン語(カスティリャ語)しかありませんでした(PP378)。彼らが「アメリカ<大陸>にやってきたのは働くためではなく、原住民の勤労の成果を奪い、安逸な生活を送るためだった。・・原住民の多くは<、イサベラの布令を嚆矢として、これを違法とする布令が何度も出されたにもかかわらず、>奴隷にされた」(PP124)。このように、スペイン人が原住民を虐待し、収奪した結果、原住民が「2000万人殺戮されたという説まで欧州では出てきた。しかし、<数字は正しいが、>そんなに多数の原住民を殺戮できるだけの人数のスペイン人は当時新大陸にはいなかった・・<虐待、収奪による原住民の死亡は200万人程度に過ぎず(!?)、>9割方は・・スペイン人が持ち込んだ疫病による病死」(PP127、129)でした。
 その後を埋めるためにアフリカから移入されたのが黒人奴隷でした。黒人との混血児はもとより、原住民との混血児も公的私的に差別され続けました。(PP354)

 (3)後進「国」スペインが大帝国を築けた理由
 スペイン人の文盲率の高さもあずかってか、およそスペイン人は他国のことに関心を持ちませんでした。スペイン人の著作は盛んに西欧の他国語に翻訳されて出版されましたが、スペインで他国人の著作を翻訳、出版することは、まずありませんでした(PP336-341)。
 そもそも、ユダヤ人やイスラム教徒を放逐することによって、豊かな可能性を二つながら自らの手で摘んでしまったのがスペインでした(PP342-343)。
 「カール五世の時代においては、<スペインは西欧の中で、>科学、産業、農業、商業、を始めとするあらゆる分野で著しく劣っていた<だけではなく、>・・人口もフランス、イタリア、ドイツよりもはるかに少なかった<し、>・・陸軍も海軍もなきに等しかった。・・<しかもイベリア半島の住民の中でも>ポルトガル人やバスク人<とは違って、スペイン人は>船乗りとしても使い物にならなかった・・<にもかかわらず、スペインの>海外帝国の形成は、西欧<全体として>の、他に抜きん出た・・技術力<等>・・を活用することによってなしとげられた」(PP??????、164、170、171)。
 しかし、「<スペイン>大帝国の・・貿易、金融、経済といった神経中枢のすべては、スペイン外の企業家達の手中にあり、彼らは<植民地からの>収益の源をがっちりつかんで離さなかった。・・例えば貿易について言えば、イベリア半島は、そこで輸出入が行われたというよりは、単なる物資集配地に過ぎなかった」(PP295、296)。

 (4)スペイン植民地の実態
 「王室は、植民地からのあらゆる収益の五分の一を自動的に受け取る定めになっていた」(PP287)。また「本国におけると同様、官職はカネで売りに出された」(PP350)。
 「<植民地には>いかなる自治機関も設けられず、従って<植民地側で>法令が制定されることはなかった。すべての法令は・・カール五世によって1524年に設置された・・評議会で<一方的に>制定され・・アメリカに運ばれて施行された」(PP142)。このため、法令の中には植民地の実態にそぐわないものも少なくなく、無視されることも再々でした。
 他方、「植民地の防衛は・・<原住民の反抗が続いた>チリを除き・・植民者側に委ねられており、本国は一切関与しなかった」(PP256)。第一、「本国から兵員を送り込んでも、新大陸に着いたとたん、脱走者が続出して荒野の中に雲散霧消してしまう」(PP359)始末でした。
 「<新大陸では>富が簡単に手に入ったので、社会的流動性は本国よりは高かったものの、植民地社会の中核的部分では、本国の階級制度が持ち込まれ、やがて本国以上の硬直した貴族社会が植民地に出現した」(PP346)。

 (5)カトリシズムとスペイン植民地
当時の「欧州人はほぼ全員、宗教的理想、願望、夢で満たされた社会環境に生きていた。この心理はそのまま政治に対する態度にも投影されていた。彼らは戦いに臨む時、とりわけキリスト教欧州にとって伝統的な敵であるイスラム教徒との戦いに臨む時、キリスト教を守るためと主張した」(PP45)。
当然、植民地形成の目的の中にもキリスト教(カトリック)の布教が入り込んでくることになります。新大陸への布教経費はスペイン王室が負担(PP264)しましたし、原住民のカトリックへの改宗は、しばしば死を伴う暴力によって強制されました(PP148、268)。やがて異端審問所も新大陸に設置されるに至ります(PP274)。布教者サイドが富を集積することもめずらしくなく、イエズス会などは、一時期、新大陸における最大の地主になったほどです(PP282)。

いかがでしたか。
スペイン(=西欧)の中南米への植民活動と、英国(=アングロサクソン)の北米大陸への植民活動との比較の詳細に立ち入るのは、余りに長くなるので差し控えますが、両者が似ても似つかぬ代物であったらしい、という気に段々なってこられたでしょう。

3 プロト西欧文明と西欧文明

 そもそも私が、西欧文明とアングロサクソン文明を、鋭く対立するものととらえていることは、読者の多くはよくご存じのことと思います。(関係コラムが多すぎるので、一々あげない。)
私は同時に、この西欧文明(広義)を、時系列的に大きく二つ、すなわち西欧が国民国家の集合体となる以前のプロト西欧文明(=カトリック文明)と、西欧が基本的に国民国家の集合体となった以後の西欧文明(狭義)に分けて考えるべきである、と主張してきました。
プロト西欧文明の行動主体(actor)はゲルマン人系領主、イデオロギーはカトリシズム、共通言語はラテン語であったのに対し、西欧文明(狭義)の行動主体は国民国家、イデオロギーは民主主義的独裁のイデオロギー(ナショナリズム、共産主義、ファシズム)、共通言語はフランス語です。
(以上については、コラム#61、#65)
プロト西欧文明の晩期にあってこれを完成させたのが16世紀のカール五世だとすれば、プロト西欧文明から西欧文明(狭義)への移行という重要な役割を果たしたのが、西欧最初の国民国家フランスにおける17世紀のルイ十三世(在位1610-43年)です。この国王の参謀が枢機卿リシュリューであり、このリシュリューの黒幕が神父ジョセフ・デュ・トロンブレーだということを、かつて申し上げたことがあります。
ルイ十三世のフランスは、国王の下に、国民(ヒト)、国家資源(モノ・カネ)、カトリシズム(イデオロギー)を結集し、これらを手段として西欧における覇権の確立を図ったわけですが、これが民主主義独裁の露払いとなったことは容易に想像ができます。国王を「民主的」に選ばれた独裁者で置き換えるとともに、イデオロギーを世俗的なもので置き換えさえすればいいのですから。
(以上については、コラムの「アングロサクソンと欧州――両文明の対立再訪」シリーズ(#100、127、129。ただし未完))。
(続く)