太田述正コラム#5888(2012.12.6)
<近現代における支那と世界(その2)>(2013.3.23公開)
(3)帝国主義諸国との関係
「・・・阿片と宣教師達のかなたを眺めやり、ウェスタドは、19世紀の支那に及ぼした外国由来の諸革新の広範な影響を強調する。
彼は、世界の様々な場所から家に書き送ったり家に戻ったりした<支那人たる>滞在者達(杭夫、鉄道作業員、店員、学生)の報告が世界についての新しい思考の諸方法を生み出したことや、急速に近代化しつつあった日本が支那の脅威になっただけでなく、若き改革者達の霊感の源にもなったこと、を強調する。・・・
<支那の>近代の時期についての多くの本において見出されるところの、米支関係の強調のし過ぎを回避しつつ、ウェスタドは、支ソ<関係に係る>経験と支那の挑戦、<そして、支那の>日本、インド、及び東南アジアとの込み入った関係、に十分なスペースを割いている。・・・」(G)
「・・・商業製品、衣類、教育、医学を含む、日常生活のほぼあらゆる側面が欧米の影響下に入る中、20世紀初に生きていた支那人達は、外国人達に対する複雑な気持ちを育んだ。
一方で、彼らは帝国主義の犠牲になったと感じたが、それと同時に、<これと>同じ人々は外国の文化や物に惹かれる気持ちも抱いたのだ。・・・
全世界が第二次世界大戦に引きずり込まれた時、外国との接触や資本主義的近代性に対する熱意が<支那人の間で>冷め始めた。
戦争の諸経験は、教育を受けた階級の間の欧米資本主義への信頼感を粉砕した。
こうして、彼らは、支那を近代化させるための新しい経済戦略を探そうとした。
毛沢東印の共産主義が時宜にかなった回答を提供し、資本主義のかなたの近代性への異なった道があることを再確認させた。
<以上のような記述がなされた上で、中共が成立し、>毛沢東の時代に<なるわけだが、この時代>において、外の世界から外交的かつ個人的に孤立するに至る支那の道程が描写される。
この道程は、国と個人的生活の致命的破壊によって幕を閉じることになる。
<次いで、>・・・1970年代における支米関係の確立(breakthrough)に始まるところの、支那の世界コミュニティへの復帰に焦点があてられる。
ウェスタドは、20世紀の最後の20年を、「米国の20年」と特徴づける。
空前のことだが、米国は、「大部分の支那人が「外国」について抱いた感覚を支配していた」のだ。
また、この時期には、我々は、経済発展を駆動力とするところの、<支那の>支那以外のアジアとの再関与(reengagement)を見出だす。
しかし、支那の「統合失調症的」対外関係は<今もなお>続いており、それが歴史を形成し続けている。
全球的コミュニティに関与しようとする意志は、時々外国の諸大国によって味わわされた屈辱の記憶を蘇らせる。
<このような説明を行った上で、>・・・ウェスタドは、支那の国際的な未来は、支那自身だけでなく、他者達が支那をどのように扱うか、に拠って決まると指摘する。・・・」(C)
「・・・『せわしない帝国』のもう一つの興味深い視角は、それが支那の帝国主義との衝突の<支那への>多義的な影響を強調する点だ。
ウェスタドは、欧米諸大国のふるまいを美化しようとはしない。
彼による、1860年における英国とフランスによる清の夏宮と帝室諸庭園の破壊の叙述は我々の背筋を凍らせる。
彼は、支那に与えた屈辱と暴力を認めるのだ。
それでもなお、彼は、清に押し付けられた悪名高い「不平等諸条約」は「支那に欧米法の拡大する諸概念をもたらした」し、支那の諸都市の中で切り取られ<てつくられ>た欧米の「租界群」は清の権力が…そのまま<これらの地に>及んでいたとすれば彼らにとって開かれることがなかったであろう形で「労働者、交易者、店員、或いは知識人の一部としての自分達自身に係る新しいアイデンティティ」を若い支那人達が創造する可能性を開いた、とも指摘する。・・・」(B)
「・・・『せわしない帝国』の素晴らしさは、支那の欧米及び日本との接触が内包する脅威を認めつつ、ウェスタドが、これら諸国が支那人を鼓吹し驚愕させ、支那人の頭を開かせる決定的役割を演じたこともまた示しているところにある。
ウェスタドは、北京において、そして海外の「支那の友人達」によって、かくも幾度も繰り返された観念、すなわち、支那は拡大的大国であったことは一度もなく、その最後の王朝たる清は「島国根性で内向き」だったという観念、に挑戦する。
それは間違いだ、と彼は主張するのだ。
「清は継続的に外部へ拡大した」と。
実際、18世紀のある時、清は、この帝国に巨大な地域である新疆を加えつつある際に、中央アジアの部族に対する、ウェスタド呼ぶところの最初の近代的ジェノサイドを実行した、と。
それだけではなく、真逆の誤った情報にもかかわらず、清は交易好きだった、と彼は記す。
より広く言えば、古き支那は永遠(timeless)にして不変(unchanging)なり、との我々のイメージは、要は諸事実に適合していない、と。
「そうする機会を与えられれば、新しいものを抱懐する支那人は、そうしない者よりはるかに多かった」と彼は書く。
この観察は、過去20年間に支那に旅した者全てにとって腑に落ちるものだ。
ウェスタドのテーゼの中心は、共産主義歴史家達の主張にもかかわらず、外国人達は支那の近代化の鍵であった、という観念だ。
英国人、米国人、日本人、ドイツ人、そしてロシア人は、支那人達の顧問、模範、先生、案内人、そして啓蒙者として、極め付きに重要な役割を演じた、と。
ウィスタドは、帝国主義諸大国によって犯された諸略奪行為をとるに足らないものとはしないが、彼は、話の他の側面についても語る。
例えば、米国人宣教師達は支那に教育、科学、そして近代医学をもたらしたし、英国人達は近代的な行政諸手法を輸入したし、ドイツ人達は支那人達に戦争について相当多くのことを教えたし、フランス人達は、こん畜生め、支那の郵便制度さえも創造した、と。・・・」(A)
(続く)
近現代における支那と世界(その2)
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