太田述正コラム#5896(2012.12.10)
<近現代における支那と世界(その6)>(2013.3.27公開)
(7)支那について
「・・・ウェスタドが到達した結論は次の通りだ。
「支那は文化であり国家であり、その周りにおいて、諸アイデンティティ、諸境界、そして目的についての諸定義が極めて長い期間にわたって変化し調整されたところの、地理的中心(core)だ。
実際、支那の概念がこれほど長持ちして来たのは、それがまことにもって非定型で議論の多いものだったのが一つの理由ではなかろうか。」・・・」(H)
「・・・支那の近代史は、異常に激動的でトラウマ的だった。
ウェスタドは、このことと、支那の儒教の伝統、その地理、及びその伝統的な国家崇拝(veneration)が、三つの大きな観念を遺贈し、支那の世界観を形成してきた、と主張する。
一つ目は、国際秩序にとって、正義(justice)は中心的であるとの概念だ。
「今日の支那人の見解では、外の世界は過去の200年間支那を不当に扱ってきたのであり、これへの不平が依然<支那の>中心テーマ(leitmotif)であり続けている。
二つ目は、「規則群と儀式群(rules and rituals)」、すなわち、さもなくば混沌とした国際社会に秩序をもたらすことができるところの一般的な諸原則、の探求という観念だ。
三つめは、「中心性の感覚(a sense of centrality)」であり、支那が「その地域にとって不可欠な国」であるとの信条だ。」・・・」(B)
→最初の二つは最後の一つの系であって、三つは一つに帰着するのではないでしょうか。
つまり、支那は、国際社会、とりわけ東アジア社会における特別かつ中心的な存在であると自分自身を見ていることから、対外的・対内的に主権を持った国家群の相互対等性を前提にした欧米的正義なるものが不当に見えるのだし、自らの特別性・中心性を体現したルールでもって国際社会、とりわけ東アジア社会が律せられるべきだ、とも考えている、というのが私の見解です。
いずれ機会があれば、より精緻に論じたいと思います。(太田)
(8)ウェスタド批判
「・・・全般的なことだが、一つの巻でかくも多くのことを取り扱った本では恐らく不可避なのだろうけれど、この本は、その多くが不幸にも読者を誤解させる危険性があるような風呂敷を広げ過ぎた一般化によって苦しめられている
例えば、支那の「完全な主権」が、1925年から46年の間によろめきつつも一歩一歩回復されて行ったと述べるようでは、1931年以降の日本軍による占領とその後に続いた国共内戦<という事実をそのこと>と折り合いをつける(reconcile with)のは困難だ。
→支那という国の法的地位と政治的軍事的実態とはそもそも別物であり、書評子のかかる主張はナンセンスです。(太田)
<また、>「支那の核心的部分はいつも東方を向いていた」と主張することは、(例えば、ヴァレリー・ハンセン(Valerie Hansen)<(注6)>の『開かれた帝国(The Open Empire)』を読んで欲しいが、)唐や明王朝に係る支配的理解に反する。
(注6)エール大学歴史学科教授。『開かれた帝国』で、支那は、その長い歴史を通じて一貫して外部の影響に対して開かれていた、と論じた。
http://www.yale.edu/history/faculty/hansen.html
→ウェスタドの主張が具体的に分からないのですが、周や隋や漢の時代から、支那人は満州や朝鮮半島や日本に一番関心を持っていた、などと少なくとも彼が言ってはいないであろうことは想像できます。(太田)
<更にまた、>香港における植民地主義を、「支那と欧州の混淆社会の様相(pattern)」であったと描写することで要約できるものではないし、1950年代は「支那が対外関係に関して1900年前後当時にそうであったところに戻った」かのように、<支那にとって、>ソ連<(ロシア)>との関係が支配的であった、と規定できるものでもまたない。・・・
→前段については、「支那と英国の混淆社会」なら完全にOKではないでしょうか。
後段については、「1900年前後」において、過去において台湾を「奪取」した日本よりも満州を事実上奪取するに至ったロシアの方が、支那(清)にとって安全保障上の最大の脅威であったことは確か(注7)であることから、間違いではありません。(太田)
(注7)「欽差大臣李鴻章が・・・50万ルーブルの賄賂を受け取<って1896年に締結した>・・・露清密約から日露戦争までの10年弱は、ロシアが政治的にも経済的にも軍事的にも満州を支配した時期だった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%B2%E6%B8%85%E5%AF%86%E7%B4%84
「近代性」に関しては、ウェスタドは、「支那の過去250年間の国際的歴史は、資本主義的近代性との出会いの物語だった」と述べることから始めている。
しかし、ウェスタドは、支那の近代性が「創造され」てきたのは共和国時代の上海においてであったと見ているというのに、彼は、日本との戦争もまた、「近代性への触媒」と見ているところ、どのような意味でそうなのかをまともには説明していない。
しかしながら、彼自身が物語っているように、(今や支那においてすら忘れ去られている)社会主義的代替諸策との出会い群こそ、同国の20世紀における相当な部分の軌道に、より大きな影響を与えたのだ。・・・」(E)
→ここも、支那の「近代化」に、英国と日本とロシア(ソ連)が、それぞれ異なった意味で決定的役割を果たした、と総括すれば、ウェスタドの言う通りでしょうね。(太田)
(完)
近現代における支那と世界(その6)
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