太田述正コラム#5906(2012.12.15)
<日本の対米開戦はスターリンの陰謀?(その5)>(2013.4.1公開)
 (5)白羽の矢が立ったホワイト
 「・・・ボストンの労働者階級の移民家族に生まれたホワイトは、第一次世界大戦の時、非戦闘員たる将校を務めた。
 彼は、ハーヴァード大学から経済学の博士号を取得したものの、反ユダヤ主義と彼の部下達に対する不快な(abrasive)言動のため、アイヴィーリーグの大学で教職を得ることができなかった。・・・
 彼が、フランクリン・ローズベルトの財務省で勤務するようになる頃までに、彼は、共産主義シンパになり、1936年には、ウィテカー・チェンバース(Whittaker Chambers)<(注15)>の助力の下、日本と支那の政治と経済に関する情報をNKVDに漏らすようになった。
 (注15)1901~61年。作家にして編集者。ウィリアム・カレッジを経てコロンビア大学中退。米共産党員となるが、後に転向し、名うての反共主義者となり、赤狩りに積極的役割を果たした。
http://en.wikipedia.org/wiki/Whittaker_Chambers
 露見するのを恐れ、ホワイトは、一時、破壊活動を断念した。
 しかし、ヒットラーとスターリンが締結した不可侵条約がぐらついてくると、1941年5月に、NKVDの工作員のヴィタリー・パヴロフ(Vitalii Pavlov)<(注16)>は、ロシアが2正面で戦う必要をなくすために米国と日本の間の戦争を引き起こす緊急任務でもってホワイトを再び活動させることに成功した。・・・」(A)
 (注16)Pavlov, Vitaly Grigorievich(1914~2005年)。ソ連の極東生まれ。地元で工員として働いた後、Auto and Road Engineers Instituteに入学。成績優秀によりNKVDにリクルートされ、その中央学校等で教育を受け、(粛清で要員不足になっていたこともあり、)短期間で西半球全体の諜報を統括する部局の要職に就き、1941年春には米国に外交官として派遣され、冬作戦を直接指揮した。同年6月初には帰国し、米国部局を統括した。1942年にはカナダに領事として派遣される。最終的に1990年に中将で退職。
http://www.documentstalk.com/wp/pavlov-vitaly-grigorievich-1914-2005
 「・・・<当時、>ホワイトは、米財務省の金融調査課(Division of Monetary Research)の課長だった。
 <ホワイトと直接関わったソ連の工作員のうち、>「ビル」<と呼ばれたの>がイスハク・アブダロヴィッチ・アフメロフ(Iskhak Abdulovich Akhmerov)<(注17)>という、ロシア化したタタール人たるNKVD工作員であり、彼は支那専門家を装っており、ホワイトは、彼と2年前にジョセフ・カッツ(Joseph Katz)<(注18)>の推選で会っていた。
 (注17)1901~75年。モスクワ大学卒。トルコ語、英語、フランス語ができた。米国駐在は、1935~39、1942~45。
http://en.wikipedia.org/wiki/Iskhak_Akhmerov
 (注18)1912~?年。ロシア領リトアニアで生まれ、恐らく第一次世界大戦以前に家族と共に米国に移住した。1932年に米共産党に入党。1937年にNKVDにリクルートされる。
http://www.documentstalk.com/wp/katz-joseph
 カッツは、偽装として、ニューヨーク市グローヴ製造会社(New York City glove manufacturing company)の共同所有者としてこの会社を運営していた。
 アフメロフは、まだ十代だった1919年以来ロシア共産党員(Bolshevik)であり、黒髪と細い目と四角張った古典的プロフィールをしていて、女性から魅惑的に見える、ハリウッド的タフガイチックなハンサムな男だった。
 カッツは、異常にぶ厚い眼鏡をかけ、総入れ歯でびっこを引きながら歩き、ドイツ語、リトアニア語、ロシア語、そしてイディッシュ語をしゃべった。
 彼は、全くもってスパイなんかには見えなかったので、諜報の世界におけるうってつけの媒介役だった。・・・
 ホワイトにとっての問題は、ローズベルトがイギリス大好き人間(anglophile)であって共産主義者ではなく、対日戦争は彼が目標としていたところの、英国救援からマンパワーを奪ってしまうことになる、と恐らくは考えていたことだった。
 1940年の6月、日本が<ドイツによる>フランスの陥落に付け込んで北部インドシナ・・そこの大部分の人々が朝鮮人が日本人を嫌っていたようにフランス人を嫌っていたところのフランスの植民地・・に進駐した時、ローズベルトは、日本への鉄とスクラップの輸出を禁じた。
 <しかし、>彼は、石油の禁輸は控えた。
 ほとんど自前の石油資源がなかった日本に戦争を決意させたかもしれなかったからだ。 しかし、ホワイトは、4月に、ローズベルトが、秘密裏に米陸海軍及び海兵隊のパイロット達がこっそりと退職して、米国が製造したP-40戦闘機を、蒋介石のために、日本と戦うために飛ばすことを許可したことに気付いていた。
 仮に日本が、米国の傭兵達が支那で給与をもらって日本の航空員達を殺していることを発見すれば、ホワイトの助けなくして戦争が始まるかもしれなかった。(p.37-39)・・・」(C)
→このフライング・タイガース(コラム#2982、3771、5455、5730)を派遣した時点で、米国は対日開戦をしていたと言ってよい、と申し上げてきたところですが、コスターも同じ考えでいるようで、この点は評価したいと思います。(太田)
 「ホワイトは、財務省における職責(perch)から、ローズベルト政権の主要人物達とよく知り合うこととなった。
 彼は、例えば、国務省のアジア専門家のスタンリー・ホーンベック(Stanley Hornbeck)<(注19)(コラム#4392、4464、5168、5900)>を知っていた。
 (注19)1883~1966年。デンヴァー大卒、ローズ奨学生としてオックスフォード大にて学士号取得、ウィスコンシン大で研究員・講師を務めた後、中華政府大学講師、その後ウィスコンシン大で博士号取得、同大で政治学の助教授・准教授。1921年に国務省入省、「極東部長(1928年-1937年)、国務長官特別顧問(1937年-1944年、極東局長(1944年)、国務長官特別補佐官(1944年)、駐オランダ大使(1944年-1947年)を歴任。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%83%E3%82%AF
 彼は、日本人を憎み、アジア人は生来、臆病でだまされやすいと信じていた。
→ホーンベックに代表される、当時の米国のエリートの間の人種主義を直視した点でもコスターは評価されるべきでしょう。(太田)
 そして、ホワイトは、彼の上司である、財務長官のモーゲンソー・ジュニアに巨大な影響力を及ぼした。
 彼の大統領との友情は、彼を閣内における最強力構成員にしていた。・・・」(A)
(続く)