太田述正コラム#5922(2012.12.23)
<米墨戦争と米国の人種主義(その4)>(2013.4.9公開)
(4)反戦
ア まともな反戦
「・・・この戦争に対して勇敢にも反対を叫んだクレイは、大統領になる望みを絶たれたけれど、その後も、上院議員としてカネに代えがたい公的奉仕を続けることとなった。
彼よりもずっと若かったリンカーンは、やはりこの戦争に反対を叫び、直接的な成果は殆んど得られなかったけれど、そうすることによって、自身が全国的に知られるに至り、その10年を超えた後に、彼を偉大な存在にした地点へと向かう漸次的過程を開始させることとなった。・・・
グリーンバーグは、この戦争は、「隣国たる共和国を、自らの栄光(aggrandizement)のためだけに分解させる」こと、大統領の言葉の信頼性(trustworthiness)、操られた結果として米国の大衆が「米国の諸原則に極めて背馳する戦争」を支持するようになることの容易性、という道徳的コストに関する「根本的な諸疑問を投げかけた」、と記す。
このくだりはいささか単純化が過ぎるし、後付の強い気配を感じるが、最近の歴史が余りにもはっきりと示しているように、ここで提起された諸疑問に対しては、いまだ満足の行く形で解答が出されていないことは確かだ。」(A)
「・・・この戦争は、明白な使命、及び、軍事的力強さ(vigor)についての米国人の諸幻想に係る極め付きに人気の高い媒体として始まった。
しかし、グリーンバーグは、戦争に疲れた兵士達における死傷と逃亡の続出、米兵による諸残虐行為についての新聞諸報道によるこの戦争の魅力の減衰、そして、全国的な反戦運動によるこの侵攻が不正義な土地奪取であるとの難詰、が起きるにつれ、大衆の幻滅と反対が急速に広まったことを証明する。・・・
・・・<平和交渉の>特使たるニコラス・トリスト(Nicholas Trist)<(注8)>は、この戦争について極めて恥ずかしく思ったため、彼はポーク<大統領>の諸指示に背いて相対的に寛大な平和条約<締結>に向けた交渉を行った。・・・」(B)
(注8)1800~74年。陸軍士官学校で軍事を、そしてジェファーソンの下で法律を学ぶ。「ジェファーソンの孫娘<と>・・・結婚した。・・・また、アンドリュー・ジャクソンの個人秘書も務めた。<そして、>陸軍士官学校において・・・教師職を務めた・・・後・・・ジェファーソンとの政治的コネクションを通じて、1828年に国務省<に入った。>」1845年8月~1847年4月まで、国務省首席事務官。その後、米墨平和条約交渉の特使。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88
「首席事務官(・・・Chief Clerk)は、・・・1789年から1853年までは国務省第2位の役職であり、国務長官が不在の場合には国務長官に代わって国務省を監督する役割を担っていた。・・・国務省第2位としての地位は、1853年・・・<に>国務次官補に継承された。1853年以降、首席事務官は公文書の保存管理、対外文書の公開、国務省の人事および財産の監督について責任を負った。その後、首席事務官の役職は1939年・・・に廃止された。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%90%88%E8%A1%86%E5%9B%BD%E5%9B%BD%E5%8B%99%E7%9C%81%E9%A6%96%E5%B8%AD%E4%BA%8B%E5%8B%99%E5%AE%98
「・・・この時の反戦運動は、1812年の<米英>戦争の時の反対運動・・それはおおむねニューイングランド地方に限定されていた・・をはるかに上回るものとなった。・・・
この1840年代におけるメキシコとの戦争及び反戦運動は、<米国の>国家的諸価値を形成することを助け、「今日に至るまで、米国がどのように世界の中で行動するかに影響を与えている」とグリーンバーグは記す。・・・
皮肉にも、メキシコとの戦争に反対する流暢なる声として出現したのは、1812年<の戦争>の<時には>「戦争<好きの>タカ派達(war hawks)」の一人であったクレイだった。
論争点は、テキサス共和国の<米国への>併合<の是非>だった。
1844年にホイッグ党の大統領候補になったクレイは、米国によるテキサスの併合は、テキサスを依然自分の領域の一部と見なしていたメキシコとの戦争を意味するだろうと正しくも主張した。
クレイの見解では、テキサスには戦争をするほどの価値はなかった。・・・
クレイは、戦争は、即、奴隷制を新しい領域に拡大することとなり、自分が掲げた公約たる産業化と内部的諸改善を掘り崩すものであると見た。・・・」(E)
「・・・1847年の晩秋には、最初ばらばらにあげられていた戦争に反対する声が反戦運動へと結集され、広範かつ大きな声になったため、これを受けて、ポーク<大統領>は、外交官のニコラス・トリストによって交渉された<平和>条約を受け入れる運びとなった。
トリストは、この戦争を継続することに極めて反対であったので、この条約がメキシコにとって「公正な」ものとすべく、大統領に逆らった。
2か月後にトリストの手になるグアダルーペ・イダルゴ条約<案>がワシントンに到着するまでは、ポーク大統領はメキシコとのいかなる平和条約も、バハ・カリフォルニア(Baja California)<(注9)>、ソノラ(Sonora)<(注10)>、そしてアルタ・カリフォルニア(Alta California)<(注11)>とニューメキシコを<全て米国に>引き渡すものでなければならない、と言って譲らなかった。
(注9)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%8F%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%83%8B%E3%82%A2
(注10)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%8E%E3%83%A9%E5%B7%9E
(注11)「アルタ・カリフォルニア(Alta California)、またはアッパー・カリフォルニア(Upper California)<(下出)>は、当時の・・・スペイン領カリフォルニア州・・・(Las Californias、1770年~1804年)が、北のフランシスコ会伝道所と南のドミニコ会伝道所のふたつに分けられた1804年に形成された。南の部分は、バハ・カリフォルニア・・・となった。アルタ・カリフォルニアは、現在の<米>国のカリフォルニア州、ネバダ州、ユタ州、アリゾナ州北部、ワイオミング州南西部の土地を含<む。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%83%8B%E3%82%A2
しかし、1848年2月騒動(agitation)に直面したポークは、グアダルーペ・イダルゴ<条約>を自分が受け入れなければ、「議会が戦争を続行するための人もカネも与えてくれないかもしれず、…その結果、自分は…ニューメキシコも上(Upper)カリフォルニアも…失ってしまうことになりかねない」という結論を下したのだ。・・・」(F)
(続く)
米墨戦争と米国の人種主義(その4)
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