太田述正コラム#5936(2012.12.30)
<フォーリン・アフェアーズ抄(その11)>(2013.4.16公開)
・ジェフリー・サックス「何が経済を成長させるのか–政治体制、地勢、資源」
「Jeffrey D. Sachs<は、>コロンビア大学経済学教授<で>・・・開発経済学の第一人者の1人として知られ<る。>」(51)
「エコノミストのダーロン・アセモグルと政治学者のジェームス・ロビンソンは、・・・『なぜ国は失敗するか』<(コラム#5336、5346)で、>・・・「財産権を守り、人々の立場を代弁する政府は経済開発を促進できるが、そうでない政府は経済を停滞させ、衰退に追い込む」<と主張した。>・・・
だが、このストーリーは少しばかり単純すぎる。・・・」(41~42)
「韓国の経済開発を例に考えてみよう。アセモグルとロビンソンも認識しているとおり、1961年から1979年まで韓国の大統領を務めた朴正熙(パク・チョンヒ)は、抑圧体制を維持しつつも、開放的経済制度をなんとか作り上げた。「経済成長の前に政治改革が必要だ」とする二人の仮説とは逆に、パクと彼のチームは権威主義的エリートだったにも関わらず、国を強くして経済を成長させたいという思いを強く抱き、その結果、分断された半島という困難な地域環境のなかでも韓国は生き残った。
さらに、1970年から2000年にかけての韓国の経済成長は、二人が引き合いに出す国内の技術革新によるものではなく、(ソフトウェアやハードウェアなどを分解・解析し、その仕組みや目的、部品、技術などを明らかにする)リバース・エンジニアリングと外国企業のための製造機器生産の領域で大きな成功を収めたからだ。最終的に韓国の経済的成功が政治的民主化と国内における技術革新を促した。
→サックスは、朴大統領が、明治期以降の日本の政治経済の発展史を、そっくりそのまま、圧縮した時間軸の中で韓国において再現しようとしただけであること、を見逃しています。
当然のことながら、日本の明治期においては、リバース・エンジニアリング等の対象は欧米諸国であったのに対し、韓国においては日本であったわけです。
(なお、「リバース・エンジニアリングと外国企業のための製造機器生産の領域で」は、恐らく、「リバース・エンジニアリングと外国企業が製造した部品の活用という領域で」といった感じに翻訳すべきところを間違えたのでしょう。)(太田)
韓国型の経済成長は、二人が考えている以上に一般的だ。実際、この経済モデルには、「東アジア開発国家モデル」、より一般的には「国家資本主義モデル」というれっきとした名称がつけられている。
中国、シンガポール、台湾、ベトナムはすべて抑圧的政治から始めて、結果的に開放的経済制度を実現した。これらのすべてのケースで、経済成長に次いで政治改革が実現するが、いまも政治改革にたどり着いていない国もある。韓国と台湾の場合、権威主義的指導者が経済改革を進めた後、政治的民主化を果たしたのに対して、シンガポールはまだ完全な民主体制とは言えないし、中国とベトナムはいまも民主化を果たしていない。こうした事例は、「開放的政治制度が経済成長の道を切り開き、そうした制度なしでは、経済は失速する」というアセモグルとロビンソンの理論と矛盾している。
韓国と台湾のケースを、二人の枠組みに照らせば、いかに簡単に間違いを犯してしまうかの具体例になる。現在の韓国と台湾における開放的政治制度は、たしかに開放的経済制度と密接に関連している。しかし、歴史的にみれば、両国における経済と政治の因果関係は、経済改革から政治的民主化へと流れており、その逆ではない。現状において開放的政治・経済制度が相互に支え合っているからといって、政治制度が経済成長の伏線を作り出したわけではない。」(45~46)
→サックスは、韓国と台湾が政治改革までたどり着けたのは、両「国」が旧日本帝国の植民地であったため、明治期以降の日本の政治経済の発展史を圧縮的に再現することを可能としたところの基盤が、植民地であった間に整備されていたからであることを見逃しています。
また、シンガポール(と香港)がいまだに開放的政治を実現していないのは、私が何度も指摘してきているように、英国の植民地当時の、自由だけれど非民主的な体制以外を彼らが経験したことがなく、植民地当時の政治体制を、いわば宗主国抜きで基本的にそのまま維持しているからです。
(なお、「これらのすべてのケースで、経済成長に次いで政治改革が実現するが」は、「これらのすべてのケースで、経済成長に次いで政治改革が実現することが期待されているが」といった感じに翻訳すべきところを間違えたのでしょう。)(太田)
「アセモグルとロビンソンは、もう一つ重要なポイントについても言い逃れをしている。それは、開放的政治制度も、植民地を搾取し、国内の少数派を抑圧した歴史を持っていることだ。
18世紀のヨーロッパ列強は、カリブ海周辺地域の奴隷労働で生産されるサトウキビで甘味嗜好を満たし、19世紀半ばのマンチェスターの繊維産業も、米南部の奴隷たちが摘み取った綿花を原料に用いていた。数十年にわたって、原子力産業が必要とするウランは、自らの健康を損ないながら高山で働くアフリカ人やネイティブ・アメリカンたちの犠牲によって採掘されてきた。植民地での残忍なやり方が十分すぎるほど立証しているように、開放的なヨーロッパの政治文化も、植民地には適用されなかった。アメリカの場合も、そうした原則は(アメリカの北部と南部を分ける)メイソン・ディクソン線、あるいは、南北を隔てるネイティブ・アメリカン居住区以南には適用されなかった。・・・」(50)
→開放的政治制度の下にあった(大正デモクラシー以降の)日本(日本帝国)は、その「政治文化」を「植民地に」も「適用」したことから、「植民地を搾取し、国内の少数派を抑圧した歴史をもってい」なかったところ、そのこともサックスの視野には入っていないようですね。(太田)
(続く)
フォーリン・アフェアーズ抄(その11)
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