太田述正コラム#5956(2013.1.9)
<大英帝国論再々訪(その5)>(2013.4.26公開)
  イ 多様性
 「ダーウィンがはっきりさせたように、「英国の帝国のためのイデオロギー的マスタープラン」的な「帝国的プロジェクト」など存在したことはない。
 その帝国は、そんなものが可能になるためには、要は、あまりに大きかったからだし、種々だったからだし、時間の経過とともに余りに多くのやり方で経験されたからだった。
 ロンドンの<諸植民地に対する>影響は、とにかく、常に極めて限定的なものだった。
 1914年の時点においてさえ、植民地省(Colonial Office)は30人の上級官吏しか抱えておらず、彼らが、法律上英国王に忠誠を誓っていたところの、600もの準自治的なインドの土侯諸国は言うに及ばず、100もの異なった植民地諸領域(spaces)を表向きには所管している、ということになっていた。
 <このように、>行政的な面での人が少なかったので、不可避的に多くを現地にいる人々に依存することとなり、彼らは、しばしば、英国の人々が彼らと彼らの仕事を理解したり感謝の念を持ったりすることがいかに少ないかについて、こぼしたものだ。」(A)
 「<大英帝国の植民地には、>基本的に三つの型(と多くの変種(anomaly))があった。
 一つは移民者(settler)国家(米国、カナダ、豪州、ニュージーランド)であり、一つはインド(多数の土侯国家の間の落ち着かない分割統治という点で別建てにすべき)であり、一つは、しばしば奴隷労働を活用したところの、搾取的(extractive)諸国家(カリブ海)だった。
 なお、南アフリカは、それがオランダ人であれ英国人であれ、少数派と多数派からなる危険な変種だった。・・・
 初期の(1815年までの)重商主義的哲学の間の争いについてのダーウィン<の描写>は上出来だ。
 重商主義哲学は、諸植民地における独占、自由貿易、及び競争相手たる諸産業の抑圧、並びに、ヴィクトリア朝的な帝国的中枢(high point)における自由貿易、に固執した。
 恐らく、大英帝国の最も持続した様相は、英国が操縦席にいなくなってしまった今日まで生き残っているところの、商品貿易、金融、運輸、及び通信に係る全球的システムだったと言えよう。・・・
 1815年から1914年の間、欧州の他のどの国と比べても、ブリテン諸島から移民して出て行った人々の数は、その2倍を超えていた。」(C)
 「<諸植民地に係る、>本国の交通・通信手段(reach)、知識、そして関心の少なさだけではなく、一定の期間を置いては、帝国の進路を逸らさせ、時には帝国を「線路上で死んだ状態にして」押し止めたところの、累次にわたる「巨大な爆発」が、いかなる種類の帝国的青写真<の策定>をも不可能にした。
 米<独立>革命は、英国をして13の植民地を失わせたのみならず、奴隷貿易と奴隷制について再考することを<英国に>強い、アジアと太平洋における力関係に影響を及ぼした。
 1830年代におけるカナダでの諸蜂起<(注9)>は、ロンドンの人々をして、移民者による自治について、より真剣に考えざるをえなくした。
 (注9)1837~38年の下カナダ、及び上カナダにおける蜂起。
http://en.wikipedia.org/wiki/History_of_Canada
http://en.wikipedia.org/wiki/Lower_Canada
http://en.wikipedia.org/wiki/Upper_Canada
 <また、>1857年のインドでの蜂起は、この亜大陸を解放することはなかったけれど、英国人が、そこをどう見、どう統治しようとするかの形を変えさせた。
 <更に、>いわゆる、ボーア戦争は、英国の諸脆弱性を喧伝した。
 そしてこの諸脆弱性は、1916年のアイルランド蜂起とその後のアイルランド自由国の創設によって再確認されることとなった。
 これが<英国に与えた>打撃は、アジアとアフリカの植民地反体制派達の気付きと注意を掻き立てた。
 <皮肉なことに、以上の>帝国における諸蜂起の目録が示唆するように、そしてダーウィンが指摘するように、大英帝国に対して最大の面倒を引き起こした者は、非常にしばしば、「白人」たる男達や女達だった。」(A)
 「その絶頂期において、大英帝国は、ほとんど想像を絶するほど概念において偉大だったけれど、非常にしばしば「その性格において即興的で暫定的」な程度が甚だしかったため、まるでガタガタのように見えた。
 実際、少なくともその最初の100年余りの間、単一の帝国に係るヴィジョンはなく、複数のヴィジョンがあった、とダーウィンは主張する。
 それは、(1688年から1815年までの)「長い」18世紀の間に、英国は、ただならぬ多元論的で知的に開かれた社会になったということを反映していた。
 それは、何よりも、この段階においては、国ではなく、カネ目的の郷紳から新しい市場を求めた商人達、零落した経済移民達、そして福音主義的宣教師達に至るところの、極めて異なった背景とアジェンダを持った人々の個人的野心によって駆動された帝国だったのだ。
 時の経過とともに、国が、しばしば不承不承、この初期の未完の(inchoate)諸事業(ventures)を保護する役割を次第に引き受けて行き、最終的には運営するようになった。 それまでは、北米の植民地化と東インド会社によるインドの漸次的な奪取は、もっぱら、民間資本と民間リスクとに依存した商業的プロジェクト群として行われた。
 そして、北米の移住者達による1775年に始まった蜂起の本質は、この民間企業(enterprise)的な帝国の観念と、北米の諸植民地を競争相手たる他の欧州植民地大国群及び追い立てられた土着の人々の双方から<北米の諸植民地を>守るための次第に増大する財政的重荷、との間の緊張の反映だった。・・・
 <大英帝国の諸植民地の分類だが、>第一のものは、北米、カリブ海、そして豪州大陸における自治的諸植民地、第二のものは、インドとそれがペルシャ湾から南支那海に目がけて力を投入する拠点を提供したところのもの、第三のものは、そのうちいくつかはインドに向かう道程における駅として獲得された基地群や香港やシンガポールのような自由貿易港(entrepot)や比較的に統治されていない背後地群を伴ったアフリカ東部と西部における「海洋橋頭堡群」、といった、より小さい諸領域のがらくた的寄せ集め(ragbag)であり、帝国の種類の第四のものは、英国の影響力が商業、投資、そして(時として砲艦外交的な)抜け目ない外交を通じて行使されたところの、アルゼンチンやエジプトのような場所における非公式のものだった。」(E)
→マクロ的に言えば、大英帝国は、本国と本国の延長たる地域とインドから成っていた、と総括してよさそうですね。(太田)
(続く)