太田述正コラム#5970(2013.1.16)
<狩猟採集社会(その3)>(2013.5.3公開)
(3)新著での主張・・各論
–寡婦の扱い–
「ニュー・ブリテン島の[12の似たような部族の1つである]カウロン族(Kaulong)の人々は、かつて、喪に服している家族の扱いに関し極端なやり方をしていた。
[1957年]まで、ニューギニア[のすぐ東方]沖のこの島の寡婦となった女性はその夫の兄弟か、兄弟がいない場合は、自分の息子の一人によって縊死させられた。
それ以外のことを行う慣習は存在していなかった。
この慣習を順守しないのは不名誉であり、寡婦は、必ず、自分の夫が死んだらすぐに縊死させてくれるように要求するのを旨とした。・・・
ジャレド・ダイアモンドがその新著・・・の中で明言するように、そのことが家族に及ぼした影響は情において忍び難いものがあった。
「あるケースでは、義理の兄弟がいない一人の寡婦が自分の息子に縊死させてくれるよう命じた」と彼は言う。
「しかし、彼はどうしてもそれができなかった。
余りにも身の毛のよだつことだったからだ。
そこで、彼に恥をかかせて自分を殺すよう仕向けるために、この寡婦は村を通り歩き、息子が自分とセックスがしたいから縊殺したがらないと叫び続けた。
卑しめられたこの息子は、ついに自分の母親を殺した。
寡婦縊死が起きたのは、カウロン族が、男の魂が後の世で生き残るためには女性の同伴者を必要とすると信じていたからだ。
これは、グロテスクな考え方(notion)だが、伝統的諸社会を縛っていた驚くべき観念(idea)の唯一の例ではない、とダイアモンドは言う。
他の習慣としては、嬰児殺しや隣人達との戦争の頻発だ。
ただし、これらは、とりわけ老人に対する世話と同情(compassion)や、欧米を恥じ入れせるような環境への<高い>関心、によって均衡がとれていた。」(B)(ただし、[]内はGによる)
「ダイアモンド氏の観察によれば、<ニューブリテン島におけるカウロン族の>近隣部族にはこの習慣はなかったし、それは、「カウロン族の寡婦縊死がカウロン社会ないしは縊死させられた寡婦やその親戚の長期的な(死後の)遺伝的利益にいかなる意味でも資するものではなかった」。」(G)
→興味深い話ではあるものの、世界においてはもとより、さほど広くないニューブリテン島においてさえ稀である異常な慣習を大きく取り上げたダイアモンドの意図は理解に苦しみます。(太田)
–嬰児の扱い–
「「伝統的」生活のよくない面としては、<諸部族>共通の習わしである嬰児殺し・・例えば、双子の片方への母乳を十分供給することを保証するためにもう片方を殺すことがしばしば行われた・・の存在をあげることができる。」(F)
→これは、伝統的社会のみならず、それ以外の社会においても、比較的最近まで、普遍的に見られていた習わしであり、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%90%E6%AE%BA%E3%81%97
先ほどとは逆の意味で、これを大きく取り上げたダイアモンドの意図は理解に苦しみます。(太田)
–子供の扱い–
「子育てについての例をあげよう。
子供達に対して厳しいどころか、多くの部族や集団では高度に寛容な(permissive)態度をとる。
「ここで寛容とは、子供を罰しない、絶対に罰してはならないという意味だ。
仮にアフリカのピグミー族の母親か父親が子供をぶったとすれば、それは離婚原因たりうる。
これらの諸社会においては、全くもって物理的処罰は許されていない。
仮に子供が鋭いナイフで遊んでそれを振り回したとしても、そのままにしておく。
時にはそれで自分を傷つけることもあるが、その子供が人生の初期に艱難を学んだ方がよいと社会が考えているのだ。
彼らは自分の選択を行うこと、自分の関心に従うことが認められている。」(B)
「これらの規模の小さい諸社会に住んだことのある欧米人は、「そこでの子供達が社会的スキルを早期に身に付けることに驚く」。
彼らは、責任感があり(responsible)、はっきりしゃべり(articulate)、かつ有能(competent)であり、「米国の10代に蔓延するアイデンティティ・クライシスなど存在しない」。
しかし、これらの印象は「単なる印象であり」、計測することも証明することも困難であり、彼の究極的評決は微妙だ(nuanced)。
「最低限…我々にとって極めて異質に見えるところの、狩猟採集者の子育て諸習わしは破滅的ではないし、明白な社会病質者からなる諸社会を生み出してもいない、と言えよう」と。」(G)
「伝統的<社会の>子育ては、例えば、幼児との常続的接触、より長期間の授乳(nursing)、共寝、そして意味のない泣きに対してさえもの即時の対応、を伴うが、明らかに子供達をスポイルしてはいない。
また、伝統的<社会の>子供達は、実の両親ではない成人達から、より世話を受けるし、自分自身の玩具やゲームを、より発明し製作するし、より多様な年齢の子供達と遊ぶが、これらの全てが彼らの社会的スキルを改善させる。」(I)
→ナイフ云々の話はやや極端だと思いますが、ニューギニアの諸部族共通の子育てのやり方は、日本とほぼ同じですね。
私は、このように、「母</父(太田)>と子が愛情のきずなで結ばれていることが、子供が(子供の)自己への信頼を育てることになり、それがやがては他者への信頼を育てることになり、円満な社会生活を営むことができる人格形成につながる」、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%82%B2%E5%85%90
ひいては代々人間主義を継受していくことにつながる、と考えています。
逆に言えば、こういう子育てをしない、欧米等の社会は、多かれ少なかれ、人間主義発現が妨げられている社会である、ということです。
なお、私は人間主義的であることこそ最高の「社会的スキル」だと思っているのですが、ダイアモンドや書評子達は、いわゆる大人らしいことが「社会的スキル」だと思い込んでいるようですね。
ところが、私自身の体験(例えばコラム#89参照)によれば、同年齢の日本の子供に比べて、欧米の子供は、はるかに大人らしい(大人びている)のであり、一体(書評子はともかくとして)、ダイアモンドは、きちんとフィールドワークをやっているのか、と皮肉りたくなります。(太田)
(続く)
狩猟採集社会(その3)
- 公開日: