太田述正コラム#6004(2013.2.2)
<米国前史(その7)>(2013.5.20公開)
  オ ニューイングランド
 「ピューリタン達もまた、梃子でも動かぬ人々だった(no pushovers)。
 彼らは、神のコミュニティをつくるためにニューイングランドにやって来た。
 今日では、彼らは魔女諸裁判<(コラム#2114、3712、4937)をやったことで記憶されているが、当時は、宗教的左派であって、イギリスでの彼らに対する不寛容さに挑戦し、また、教義に関わる事柄についてお互い同士で戦っていた。」(J)
 「ベイリン氏は、彼が通じている場所である、ニューイングランドについての箇所において一番冴えており、<ピューリタン達>の苦労を数え上げた上で1620年以降におけるマサチューセッツ湾植民地の急速な成長について記す。
 この部分だけで、本件に関する一冊の小さい本にできるくらいだ。
 この著者は、ピューリタンの指導者達について、教義の対立による分裂への傾向、及び、教義について妥協的な者達と純粋な心を抱く者達との間の容赦なき諸闘争、を色鮮やかに描写し、ピューリタン達は、反対者達に対して、すぐ、鞭打ち、八つ裂き、火刑に訴えた、と指摘する。
 これらは、まことに野蛮な年月だったのだ。」(B)
 「<ヴァージニアやメリーランドから>北東へ数百マイルのところに、同様に騒然とした、しかし、騒ぎの中身が極めて異なったところの、ニューイングランドがあり、ベイリンは、それにこの本の3分の1を充てている。
 これらの年月においては、ニューイングランド人の大部分は、1630年代に、チャールズ1世による、宗教的な意見の相違に対するよろめきながらの弾圧(suppression)から逃れ、急いで少人数の目的意識を持った形の脱出を行い、<北米に>到着した。
 (<本国>外に向けて押し出す圧力は、ピューリタン達が、イギリスを乗っ取ってこの国王を殺した1649年に停止した。)
 移民達の大部分はピューリタンであり、彼らの指導者達は、自分達以外の者達が宗教の自由を余り行使しないよう確保しつつ新たに見出された宗教の自由を行使する決意を固めていた。
 他の移民者達とは違って、ニューイングランド人の多くは、相互に繋がりあっていたネットワークの形で到着した。」(D)
  カ デラウェア
 「ベイリン氏は、スウェーデン人とフィンランド人に関する章における北上していく記述をデラウェア川で中断する。
 彼らの定住は1638年に始まったが、最大時にも数百人を超えることはなかった。
 なお、彼は、フィンランド人は、母国の諸森林での場所を変えながらの(shifting)栽培を実践していたため、アメリカの森林を切り開いての農法が巧みであったと主張する。 更に大胆に、彼は、インディアン達は、様々な意味で、トナカイを放牧している(スカンディナヴィア半島極北部の)サーミ人(Sami peoples)<(注12)>に似ていることを発見した、と言う。」(B)
 (注12)「<スカンディナヴィア>半島北部ラップランド及びロシア北部コラ半島に居住する・・・コーカソイドに属する・・・少数民族。<彼らは、>・・・「ラップ人」<(=辺境の人)>とも呼ばれていたが、近年は蔑称のため避けられている。・・・今日、ほとんどのサーミは定住生活を営んでいる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%9F%E4%BA%BA
 「イギリス、フランス、そして(しばらくの間、)オランダは定住地群を確立することに成功したが、スウェーデン人とフィンランド人はそれに失敗した。
 しかも、彼らが生き残る闘争をする過程で、新しい欧州人定住地群は、相互に、資源、大志、或いは単なる生き残りのために戦いさえした。
 白人側とアメリカ原住民たる諸民族の全てが、自分達の新しい隣人達に対し、北米の微妙な力の均衡の中で彼らのために席を空けてやるか、彼らに対してやけで戦争を仕掛けるか、或いは、彼らが北米を統制しようとの試みを緩和するためにこの大陸から彼らを追放するか、瀬踏みをしようとした。」(E)
→私が何度も申し上げてきたところの、米国がアングロサクソンと欧州とのキメラである、ということは、米国の前身たる北米諸植民地の立ち上がりを振り返っただけでも、明らかである、と改めて思います。(太田)
(続く)