太田述正コラム#0162(2003.9.30)
<アングロサクソンと欧州――両文明の対立再訪(その4)>
(「その3」(コラム#129)から随分時間がたってしまいましたが、17世紀初頭のフランスの黒幕、カプチン僧フランソワ・ルクラーク・デュ・トロンブレー(ジョセフ)の政策の行き着く先とその悲劇的結末を語りたいと思います。)
ジョセフと彼のメンター(導師)であった宰相リシュリューの違いは、リシュリューにとって、神はもとより、フランスやフランス王室も、単に彼の「生来の天才たる資質、権力への並はずれた欲望、金銭への熱情」を充足させるための手段にすぎなかったのに対し、ジョセフにとっては神とフランスは、二つにして一つであり、自分の一身を捧げるべき目的そのものであった点です。(PP169、172)
実際、山のようにカネを貯め込み、豪奢な生活を送ったリシュリュー(PP270)とは大違いで、ジョセフは「カネを持っていなかったし、給与を受け取ることもなかった。彼の経費は国王によって特別手当の形で支給された。」(PP243)
その一方でリシュリューが宰相であった時代、すなわちジョセフがフランスを取り仕切っていた時代、フランスの人口はごくわずかしか増えなかったというのに、庶民にかけられた税金、タイユ(taille)は四倍半に増えています。(PP248)
1624年、ジョセフはリシュリューと協議の上、スペインとオーストリアの両ハプスブルグ家・・カトリック勢力・・を疲弊させる目的で、ドイツの三十年戦争において、形勢が不利になっていた(本来は敵であるはずの)プロテスタント陣営に外交的財政的支援を行うことを決定します。(PP183)
もとより、プロテスタント陣営が勝利をおさめるようなことになったら困るので、プロテスタント側が優勢になると、帝国側に肩入れし、振り子が逆に振れるとプロテスタント側に肩入れする、ということを繰り返しました。
その手段として、軍事力が用いられたのはもちろんです。
そのほか、ジョセフは、彼の息のかかったカプチン僧達を布教活動のために全世界に派遣していましたが、これらカプチン僧達を巧まずしてフランスの手先、反ハプスブルグの工作員として駆使しました。(PP184)
更にジョセフはリシュリューの下にフランスの公式の諜報機関を設立し、その事実上の長官として指揮を執り、カネにあかせて国内外から情報を収集し、フランス王室への服従をかちとり、寝返りを誘いました。(PP193)
ジョセフのこれらの策動は30年戦争をいたずらに長引かせることとなり、「ドイツ<に、>虐殺、飢饉、凍死、そして疫病によって・・約2100万人<が>約1300万人<へと>・・総人口の三分一を失う」という巨大な被害をもたらします(PP289)。戦争当事者である聖俗の諸侯達のうちでひもじい思いをした者など一人もいませんでしたが、庶民はしばしば飢餓に直面し、カニバリズム(食人)の地獄絵が現出するのも決して希ではありませんでした。(PP232,233)
30年戦争による荒廃は、新大陸の発見による経済の地盤沈下、宗教改革に伴う紛争、そして農民戦争、によって疲弊していたドイツの「没落」を決定的なものにします。都市住民は経済的優位を失って官僚化するとともに農民もまた牙を抜かれ、ここにドイツの悪名高い官僚制とこの官僚制による支配に従順なドイツ人民が誕生します。そしてドイツ諸国の議会は廃止されるか形骸化されてしまいます。(PP291-292)
ジョセフの悪名は欧州中に広まります。
30年戦争の最中、神聖ローマ帝国議会が開かれたラティスボンに赴き、帝国軍の名将ティリー(Tilly)と面会した後、退出してきたジョセフは、待ちかまえていた一市民から、「お前はカプチン僧だろう。だとすれば、その天職からして、キリスト教圏の中での平和を追求しなければならない立場のはずだ。ところがあろうことか、お前はいずれもがカトリックの主権者(sovereign)であるところの(神聖ローマ)皇帝及びスペイン王、とフランス王の間の戦争を始めた。恥を知れ!」と面罵されます。(PP219)
この悪名にひるむどころかジョセフは、オスマントルコの支配下にあったトランシルバニアを通じ、カネを渡すかわりにオーストリア・・ハプスブルグ家・・を背面から衝かせる交渉を、キリスト教の敵オスマントルコと始める始末でした。(この交渉はジョセフの死後なお続けられますが、ウエストファリア条約が締結されて30年戦争が終結することを契機に、交渉はうち切られます。)(PP265-266)
しかし、「チャールス五世とフィリップ二世によってうち立てられたハプスブルグ帝国」は、「1648年にウェストファリア条約が締結されてオーストリアの野望がうち砕かれ」るとともにドイツの分裂が恒久化され、これに引き続く、スペイン継承戦争後の「1660年のピレネー条約がスペインの瓦解をもたらした」こととあいまって弱体化し、「フランスの欧州覇権への道」が確立する(PP274、293)のですが、ジョゼフは、自分が生涯をかけて追求したこの世俗的願望が達成される喜びに、生前のうちにあずかることはできませんでした。
彼がこの世俗的願望ともに、二つにして一つのものとして追求した非世俗的願望・・リシュリューと同等の枢機卿への任命・・もまた、彼の死までに成就しませんでした。(PP278)
とはいえ、ジョセフはフランスの欧州覇権確立の礎を築くことには成功したのであって、もって瞑すべきでしょう。
問題は、ジョセフが量り知れない害悪を後生に及ぼしたことです。
ハックスレーは断罪します。
ジョセフが変貌させたフランスは、世界史上初の全体主義国家となった。
当時は産業化した現代ほど人民抑圧の技術が発達していなかったために、それほど凶悪ではないようにみえるが、ジョセフがやったことは、宗教を使って国民を国家に糾合するとともに他国民をたぶらかし、諜報機関を用いて自国民と他国民を籠絡し畏怖せしめ、軍事力を強化・活用し、覇権を目指すというものであり、全体主義以外のなにものでもない。
このような全体主義は、短期的にはフランスを隆盛に導いたものの、フランス以外の諸国民の間に惨禍をまき散らし、対仏敵愾心を煽り、長期的にはフランスの衰退を招くことになった。ジョセフが仕えたルイ13世とその子ルイ14世と同じ轍を後生のナポレオンもまた踏んだ。
それだけではない。
ありとあらゆる後生の独裁者達・・ロシア、トルコ、イタリア、そしてドイツの独裁者達・・は、このジョセフが生み出した権力維持手法を拳拳服膺することになった。(ジョセフの時はまだ、目的としての宗教と手段としての宗教が分かちがたく結びついていたが、後には目的としての宗教は忘れ去られ、)国民を操作するための手段としての宗教・・イデオロギー(太田)・・、と諜報機関とを車の両輪として活用するという手法を・・。
と。
(以上、PP309、315を要約し意訳した。)
1638年の暮れ、ジョゼフは死去します。
葬儀が終わってから数日後、彼の墓石に次のような落書きをした者がいたといいます。
「ご通行中のおのおの方。まか不思議なことに、悪魔が天使とともにここに眠る。」(PP330)
(完)