太田述正コラム#6024(2013.2.12)
<愛について(その1)>(2013.5.30公開)
1 始めに
「湾岸諸国はどうなる?」シリーズの最中ですが、予告した通り、愛について考えるシリーズを並行して開始することにしました。
サイモン・メイ(Simon May)の新著、『愛:その歴史(Love:A History)』が出たので、これをたたき台にしたいと思います。
例によって、この本の書評類をもとにこの本の概要をなぞりつつ、適宜私の考えを挟んで行くことにしましょう。
ところで、これらの書評類を読んだ時、(著者本人のインタビューも含まれていますが、)本当に、彼らは同じ本の書評をしているのだろうか、と首をひねることが再三ありました。
恐らくこういうことではないでしょうか。
「愛」については書評子それぞれが良く知っているという思い込みがあり、自分の考えに引き寄せてこの本を読んでしまっているのではないかと思われるのが第一点であり、著者自身が、欧米の歴史空間の中だけで自己完結的に「愛」の解明に取り組んでいるため、この歴史空間の歪みに由来する分かりにくさを払拭しきれていないために書評子が様々な受け止め方をしてしまうのではないかと思われるのが第二点です。
第一点については検証しようがないところ、第二点については、この「歪み」に光を当てることが本シリーズの最大の目的である、とあらかじめ申し上げておきましょう。
A:http://www.washingtonpost.com/opinions/everlasting-passionate-love-why-we-need-to-adjust-our-expectations/2013/02/08/a913646e-7076-11e2-8b8d-e0b59a1b8e2a_print.html
(2月10日。以下全て同じ)
B:http://www.timeshighereducation.co.uk/story.asp?storycode=416707
(書評。以下同じ)
C:http://www.ft.com/cms/s/2/a3de5f16-a62f-11e0-8eef-00144feabdc0.html#axzz2KTUzQ34z
D:http://emotionsblog.history.qmul.ac.uk/?p=692
E:http://www.independent.co.uk/arts-entertainment/books/reviews/all-about-love-by-lisa-appignanesibr-love-a-history-by-simon-may-2304859.html
F:http://online.wsj.com/article/SB10001424052702303365804576431990140128916.html
(Lisa Appignanesi;All About Love、Ivan R. Dee;Extravagant Expectations の書評を兼ねる)
G:http://www.guardian.co.uk/books/2011/may/07/love-literature-tessa-hadley
H:http://www.theglobeandmail.com/life/relationships/why-were-looking-for-love-in-all-the-wrong-places/article4258396/
(著者のインタビュー)
I:http://www.newcriterion.com/articles.cfm/At-long-last-love-7164
(書評。以下同じ)
J:http://www.calvin.edu/chimes/2013/01/30/love-a-history-criticizes-of-modern-view-of-love/
なお、メイは、ロンドン大学バークベック・カレッジ(Birkbeck Colleg)の哲学の教授です。(F)
2 愛について
(1)欧米における「愛」の前半史
「愛についての標準的な本となれば、プラトンの『饗宴』<(注1)>から始まるのが通例だが、メイのこの本は、普通省かれるところの、ヘブライ聖書(Hebrew Scripture)<(≒旧約聖書)>から始まる。
(注1)「プラトンは『饗宴』の中で、・・・<相手が同性であれ異性であれ(太田)、>肉体(外見)に惹かれる愛[(エロス)]よりも精神に惹かれる愛の方が優れており、更に優れているのは、特定の1人を愛すること(囚われた愛)よりも、美のイデアを愛することであると説いた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%88%E3%83%8B%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%96
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A5%97%E5%AE%B4 ([]内)
愛を鼓吹し維持する諸動機の感覚を喚起することによって欧米における愛の諸概念を形成して来た点において、<ヘブライ聖書>は他の諸流儀のいずれよりも抜きんでている、と彼は主張する。・・・
愛を正義及び尊敬と結び付けたこと・・はモーセの五書(Torah)による急進的な革新だった<というのだ>。
イエスは、<旧約聖書中の>レヴィ記(Leviticus)から「自らと同じように汝の隣人を愛せ」を借用(appropriate)したが、愛とセックスについては驚くほど語っておらず、キリスト教においてこの二つを強調するようになったのは、パウロとその後の思想家達からだ。
愛の醸造に関し、くどくど言われてきたところのもう一つの成分は、ギリシャ由来だ。
プラトンのエロス(Eros)の観念は、美によって掻き立てられ、美を憧れる。
愛は<人を>気高くする<というわけだ。>
<また、>アリストテレスの友愛(philia)<(注2)>とは、友人を、第二の、そして倫理的により高められた自分自身を、愛することだ。
(注2)「アリストテレス・・・によれば、友愛の対象となるのは、善きもの、快いもの、有用なものの三種類であり、「どれか一つによって、互いに対して好意を抱き、かつ、互いの善を願い、しかもそうしたことが互いに気付かれている」ことが友愛の条件である。このうち、快いもの、有用なものを対象とする友愛は、付随的に友愛であるにすぎない。というのは、そのような友愛は、相手がその人自身であるという点においてではなく、「自分にとって快いもの」、「自分にとって有用なもの」をもたらしてくれるという点において愛される関係だからである。
「自分にとって快いもの」、「自分にとって有用なもの」とは、相手に付随する属性であって、相手がその属性が失うならば、愛することをやめてしまうし、その愛は、同じ属性を有する任意の相手をもってして代替可能である。彼らが愛するのは、相手その人自身ではなく、「自分にとって快いもの」「自分にとって有用なもの」であり、このような友愛は、真の友愛とはいえず、利己的な自己愛であるといえる。
これに対して、善、すなわち人柄の善さ、徳を動機とする友愛は、相手に付随するものではなく、相手がその人自身であることに基づくものであり、「完全な」友愛と呼ばれる。こうした完全な友愛は、善き人同士においてのみ成立する。この友愛は、「お互いよくしてやることに熱心である」点で、利他的である。」
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/57734/1/katoh.pdf
ということは、もし彼が善(good)でなくなれば、彼を捨てなければならない、ということだ。
<しかし、>実際のところは、我々が美とか善(goodness)を愛する対象の中に見出すのは、愛の原因ではなく結果ではないのだろうか、とメイは問いかける。
ここでは、メイは、浪漫主義的な(Romantic)見解に傾いている(sympathetic)ように見えるかもしれない。
浪漫主義者(romantic)達は、人間を、最高の善を体現した、かつ、かつては神にだけ許されていたような種類の愛にふさわしい存在である、と見る。
しかし、この浪漫主義<(注3)>の遺産こそ、まさに現代の愛の概念に関してメイが非難するものなのだ。
(注3)「18世紀末から19世紀初頭に起こった<(>擬古典主義に反対し<)>熱烈な感情を謳おうとする主義・主潮」
http://ejje.weblio.jp/content/romanticism
<浪漫主義のように、>人間の愛について、神の人間に対する愛の観念をモデルにすることは、愛は無条件(unconditional)で、永遠(eternal)で無私(selfless)でなければならないと思い込んでいる、ということであり、このような倨傲なる要求は不満しかもたらさない、と彼は言う。」(B)
→ここは完全に同意です。
川内康範は「無償の愛」を求めた
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E5%86%85%E5%BA%B7%E7%AF%84
わけですが、それは倨傲なる要求だ、というわけです。
しかし、川内の「無償の愛」は、彼が日蓮宗の寺に生まれたところ、法華経の「借無上道」のことだとされています(ウィキペディア上掲)が、それは、「釈尊の教えのために、自己の身命をささげること」
http://books.google.co.jp/books?id=IJfPQYmEChoC&pg=PA147&lpg=PA147&dq=%E5%80%9F%E7%84%A1%E4%B8%8A%E9%81%93&source=bl&ots=Ld8pPcG76x&sig=bZPEnmX2labrv4CpdYGXafm65S8&hl=ja&sa=X&ei=0RIaUa-GC8mPkgWbn4HgCw&ved=0CC0Q6AEwADgK#v=onepage&q=%E5%80%9F%E7%84%A1%E4%B8%8A%E9%81%93&f=false
であり、「釈尊の教え」が人間主義の教えである、という私の理解が正しければ、「借無上道」は「無償の愛」ではないのですから、川内の仏教理解が的確なものであったとすれば、作詞家にしては、言い換えの言葉づかいがいささか乱暴であったな、と思います。(太田)
「18世紀に至るまで、愛は、他人の美(プラトン)、徳(アリストテレス)、善(聖アウグスティヌス(Saint Augustine))<(注4)>、或いは、女性の道徳的な真正性(moral authenticity)(スイスの哲学者たるジャン・ジャック・ルソー)<(注5)>、といった様々なものに条件付けられてきた。
(注4)「アウグスティヌスは、新プラトン主義に出会って,<マニ教的な>善悪二元論から決別しました。・・・
<彼は、>神は、完全で存在をもち、善であるが、<人間は、神によって>無から作られた限り、存在と善を欠いていると考えました。・・・それを埋め合わせるために、人間は、さまざまなものを求めると・・・考えたということです。
これをアウグスティヌスは、クピディタス<(欲望)>と呼んだそうです。
アウグスティヌスは、欲望は、空虚なものを空虚なもので埋めようとする行為にすぎないため、欲望によって人間は永遠に満たされないと考えました。
つまり、空虚を空虚で埋めるので満たされることはないということです。
アウグスティヌスは、クピディタス・・・を神に向けるときに、カリタスという神への愛に昇華させることで、クピディタスを抑制してカリタスを目覚めさせることを・・・勧めました。」
http://homepage2.nifty.com/SON/tetugaku/TETU90.htm
(注5)ルソーは、文明は、<本来、>真正にして道徳的であるところの個々人のアイデンティティー(authentic moral personal identities)の発展を助けると同時に阻害するという両面がある、と考えた。
http://septentrio.uit.no/index.php/nordlit/article/viewFile/2078/1936
「ルソーによれば、人間は自然状態(社会が結成される前の状態)では素朴な友愛感情に基づいて生きていて、自然状態では自分の能力と欲求が一致していた。欲求も生きるための必要最低限のものであり、事実自分の力で得られるものであった。欲しいと思う気持ちと、得ることのできる能力が一致していた・・・。しかし、社会が結成されて文明が進歩すると、自分の力以上のものが欲しくなってしまう。そして欲望が生まれた。欲望が生まれると、人々は物の取り合いを始め、社会的な不平等が生まれる。悪徳や争いが生まれると考えた。」
http://cert.shinshu-u.ac.jp/gp/el/e04b1/class04/rousseau.htm
キリスト教神学者達の中の恐らく最高峰である聖トマス・アクィナスでさえ、神が善でなければ、我々は神を愛する理由はなかろう、と言った。」(A)
「愛についての偉大な思想家達の多くは、それが永遠の命を持つものではないことを認めていた。
アリストテレスは、もはや徳において相似通ってはいなくなったら、二人の人の間の愛は終わらなければならない、と言った。
イエスでさえ、神の人間に対する愛は必ずしも永遠ではないことを示唆したように見える。
<最後の審判を想起せよ。>」(A)
「<すなわち、メイによれば、>愛は、・・・<ユダヤ人の>神から始まったのだ。
それは、我々の至高の(そしておおむね到達不可能な)感情の原型だった。
メイの本は、プラトンと中世のトルバドゥール達(troubadours)<(注6)(コラム#4206、4887)>によって発展させられた愛の理想化されたヴァージョン、オヴィディウス(Ovid)<(注7)>とルソーのより肉欲的な<愛についての>見解、そして、フロイドとプルーストによって分析された自己破壊的諸欲望<たる愛>、と何度も方角を切り替えつつ歴史の中を荒馬を進める。」(H)
(注6)「11~13世紀ごろ主にフランス南部で活躍した叙情詩人」
http://ejje.weblio.jp/content/troubadour
(注7)BC43~AD17年。詩人。「彼は『愛の歌』をギリシア神話を参考に書いたが、あまりに露骨な性的描写が多かったため、実際に読んだアウグストゥス帝が激怒し、紀元8年、黒海沿岸の僻地であるトミス(現在のコンスタンツァ)へ流されそこで没した。最も有名な作品は、『変身物語』である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A6%E3%82%B9
「ルネッサンス<(注8)>において、恋の病の最善の治療法の一つはセックスだった。
(通常)男性たる恋する者の欲望を充足させることを許しただけでなく、その愛する人について親しく知ることによって、この恋する者の夢の誤りに気付かせると考えられたからだ。」(D)
(注8)「一義的には、14世紀~16世紀にイタリアを中心に西欧で興った古典古代の文化を復興しようとする歴史的文化革命あるいは運動を指す。また、これらが興った時代(14世紀~16世紀)を指すこともある。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%B9
→要するに、欧米では、18世紀までは、タテマエとしての、生身の人間を超える存在に向けられた愛と、ホンネとしての、生身の人間に対するセックス、という図式であった、というわけです。(太田)
(続く)
愛について(その1)
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