太田述正コラム#0164(2003.10.3)
<トルコについて(その2)>
(前回のコラム<トルコについて(その1)>に、注を三つ付ける形で大幅に加筆し、ホームページ(http://www.ohtan.net)の時事コラム欄に再掲載してありますので、関心のある方はご参照ください。
ところで、ある読者から歴史・文明論の書き方が必要以上に小むつかしいのではないかというご批判をいただき、またもう一人の読者からは、このところ、コラムの頻度(分量)が多すぎて読み切れないというご批判をいただいています。
ご批判は甘受しますが、いつまでもこんな頻度でコラムが書けるわけはないので、文体等は余り気にせずに、書けるときに思う存分書かせていただきます。
読者の方で、適宜取捨選択して読んでいただければ幸いです。
現在、メーリングリスト登録者数は315名になりました。まだまだ少ないので、一層の「宣伝」方、よろしくお願いします。)
3 ケマリズムが生まれるまで
アタチュルク(1934年まではケマルと呼ぶべきだが、便宜上、アタチュルクで統一する)は、1881年に、現在ギリシャ(希)領のサロニカで生まれます。父方の祖先は14??15世紀にマケドニアにロシア南部からやってきたコサックです(http://www.discoverturkey.com/english/kultursanat/tb-ataturk.html。10月3日アクセス)。
ケマリズム生誕に至るプロセスは、次のようなものでした。
(1)オスマントルコから新生トルコへ
第一次世界大戦に敗れたオスマントルコは1918年10月、サルタン=カリフのメフメット六世は降伏文書に調印し、連合国中英・仏・伊・希の四カ国はオスマントルコ領内に進駐します。そして連合国は、1920年にオスマントルコ解体(東部ではアルメニアを独立させ、南東部ではクルドに自治権を与え、アナトリア半島南部は仏、西部は伊、西部は希に分割し、ボスポラス・ダーダネルス両海峡は国際管理下に置き、オスマントルコはアンカラ付近のみに限定される)を規定したセーブル講和条約を提示し、メフメット六世はやがてこれに調印します(大島直政「遠くて近い国トルコ」中公新書1968年 127頁及びhttp://www.krg.org/docs/articles/Mohammad%20Ihssan%20-%20Paper%20from%20Denmark%20Conference.pdf(10月3日アクセス))。メフメット六世は、超民族的存在であるサルタン=カリフの権威は、ローマ教皇同様、統治する領域の大小、有無によって理論上は左右されないと考えたのでしょう。
それまでイスラム教とスルタンという旗印の下、(セーブル条約のクルド人に有利な箇所は秘匿しつつ)クルド人を含むオスマントルコ住民を結集して(http://home.cogeco.ca/~konews/8-9-02-opinion-ali-who-do-they-think.html。10月3日アクセス)オスマントルコ「解体」を回避すべく外国勢力と戦ってきたアタチュルクはここに、イスラム教並びにイスラム教と不可分一体の存在であったサルタン=カリフ制、に代わる旗印を掲げる必要にせまられます。
それが、アナトリア半島とその周辺に住む住民は、(ギリシャ人やアルメニア人を例外とするものの、クルド人等を含め)皆トルコ人であり、そのトルコ人は力を合わせて自分たちが住んでいる領域を守らなければならないという観念です。
アタチュルクはこの新しい旗印を掲げ、軍略と権謀術数の限りを尽くしてギリシャ軍等と戦い、勝利します。そこで1922年、セーブル条約に代わる講和条約交渉がローザンヌで開かれることとなるのですが、この講和会議への招待状がなおもメフメット六世にも送られてきたことを契機に、アタチュルクはサルタン=カリフ制との訣別をようやく決意します。そして翌1923年、アナトリア半島とその周辺が新生トルコの領域としてローザンヌ条約によって認知されるのです。(大島前掲129-132頁)
(2)アタチュルクの政策
このようにして勝ち取った新生トルコの領域は守られなければなりません。
新生トルコの最高権力者となったアタチュルクは、1922年から1935年にかけて矢継ぎ早に一連の政策を打ち出し、これらの遵守を新生トルコ住民に強制します。(c PP46-47、discovertaurkey.com前掲及び大島前掲 132、134頁)
??欧州化:スイス民法・ドイツ刑法・イタリア経済法をベースにした法整備、グレゴリウス暦の採用、近代数字とアルファベットの採用(アラビア文字の禁止)、婦人参政権の導入、メートル法の採用、称号の廃止、名字(姓)の導入、教育制度の平等化、
??世俗化:サルタン制・カリフ制・イスラム学校・イスラム税・シャリア(イスラム法)・イスラム裁判所の廃止、イスラム聖跡の閉鎖、イスラム連帯組織の禁止、イスラムの国家宗教たる地位からの追放、週の休日の金曜(イスラムに由来)から日曜(キリスト教に由来)への変更、イスラム祈祷開始の言葉のアラビア語からトルコ語への変更、女性の黒ヴェール・男性のトルコ帽の禁止
??トルコ語及びトルコ史に係る研究諸機関の設立、クルドの文化・言語・地名の禁止
(3)ケマリズムの「必然性」
アタチュルクのねらいは、あくまでも領域の保全にあったということが重要です。(領域がはるかに狭くなり、しかも領域の拡大(征服)など考えられなくなった、という違いはありますが、)この点では、オスマントルコの国家「目的」とトルコ共和国の国家「目的」の間には基本的に変化が見られないと言っていいでしょう。
領域を保全(拡大)するためには、その手段として精強な軍事力を整備し、維持する必要があります。
やがて、精強な軍事力を整備し、維持するためにはそれを欧州化(近代化)しなければならないという認識が生まれます。オスマントルコ時代のセリム三世に始まる諸「改革」は、ことごとくこのような認識に基づいて行われてきました。
そして「改革」を重ねていくにつれて、軍事力を近代化するためには軍事力以外についても欧州化(近代化)を図る必要があるということに気付き始めます。その行き着く先が??だったと考えることができます。
だから、??は領域の保全という「目的」を達成するための「手段」(軍事力)の、更に「手段」にすぎず、それ自体が「目的」では全くなかったということになります。(自由・人権の保障に直接関わる政策が見あたらないことがこのことを物語っています。)
他方、??と??はコインの表裏であって、領域を保全(拡大)しなければならない「理由」(旗印)に関わります。
アタチュルクは、「イスラムないしサルタン=カリフ制」ではダメだから「トルコ民族」というフィクションを創造した上で、「理由」(旗印)をこれに取り替えた、ということです。(アタチュルク自身、父系の祖先はコサックつまりはタタール人(ロシアをかつて支配したモンゴル人)の一派(Britannica CD98)であったことを思い出してください。)
アタチュルクが打ち出した一連の政策は、フィクション・・イデオロギー・・に立脚しており、しかも彼は、このイデオロギー及び一連の政策を、権力をもって新生トルコ住民に強制したということになります。
アタチュルクは1938年に死去しますが、新生トルコでは彼は神格化されることになります。その一方で、彼が生み出したイデオロギーは、アングロサクソンやクルドによって、同時代のファシズムや共産主義と並ぶ民主主義的独裁の一形態として、ケマリズムと呼ばれ、嫌悪の対象となるのです。
(続く)