太田述正コラム#0165(2003.10.5)
<トルコについて(その3)>

4 トルコにとって解決が本質的に困難な諸問題

 (1)クルド(Kurd)への対処
   トルコ政府によって1924年にクルドの文化、言語、地名が禁止されると、アタチュルクにだまされていたことを知ったクルド人は、翌年大反乱を起こしますが、徹底的に弾圧されてしまいます。
爾来、(イラン、イラク及びシリアにまたがって住み、トルコ人口の五分の一を占める)クルド人は、トルコ領域内の住民はすべてトルコ民族に属するというフィクション(神話)を笑殺するとともに、イスラムに忠実であり続け、ケマリズムを峻拒してきました。
   1984年には、アブドラ・オチャランが1974年に設立したPKK(クルド労働者党)が武力闘争を開始しますが、またもやトルコ政府による仮借なき弾圧を受けます。そのオチャランが1999年に逮捕されるとPKKは武力闘争を断念したため、トルコ政府はクルド地区を対象とした戒厳令を解除します。
   (c PP48及びhttp://www.guardian.co.uk/The_Kurds/Story/0,2763,208255,00.htmlhttp://www.guardian.co.uk/The_Kurds/Story/0,2763,924025,00.html(どちらも10月1日アクセス)による。)
   しかし、現在もイラク北端のトルコとの国境地帯にはPKKの残党5000人がたてこもっており(http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/3158686.stm。10月3日アクセス)、また、トルコ政府はクルド文化・言語の解禁方針を打ち出したものの、未だ殆ど実行に移されていないことが示すように、クルド問題は容易に解決しそうもありません。
   それもそのはずです。
トルコ共和国の領域内に「トルコ」以外の民族の存在を認めることは、ケマリズムの否定、ひいては「トルコ」概念の否定につながるからです。

 (2)EUへの加入
   トルコ共和国は、欧州大陸とアジア大陸にまたがり、ソ連とアラブ世界に対する最前線に位置していたことから、第二次世界大戦後、非キリスト文明に属しながらも、NATO加盟を認められました。
   このことにより、最大の仇敵であるロシア(ソ連)に対して領域を保全する備えは整ったものの、もう一つの仇敵であるギリシャに対していかに領域を保全するか、という難題が残されました。

   ギリシャは、欧州文明の三要素中のローマ文明の更に淵源であるとともに、非カトリックの正教を奉じることから、欧州諸国からも、ロシアからも思い入れがありました。英国もまた、ポリス時代のギリシャの自由と科学的精神に対する思い入れがありました。
   1832年、ギリシャは11年に及ぶ独立戦争の末、オスマントルコから独立します(http://www.onwar.com/aced/data/golf/greece1821.htm。10月5日アクセス)が、これはフランス=欧州文明、英国=アングロサクソン文明、ロシア=ロシア文明という三カ国ないし三つの文明による支援のたまものでした。

そのギリシャとのトルコの現在進行形の抗争の大舞台がキプロスです。
キプロスは、ビザンチン帝国(=ギリシャ人が取り仕切っていた)の領土であった時代、すなわちギリシャ正教時代、が12世紀末まで800年以上の長きにわたって続いた後、十字軍としてやってきたフランク族のルシニャン(Lusignan)王朝時代、及びこれを引き継いだヴェニス共和国領時代にカトリック化しますが、1571年にオスマントルコがキプロスを征服すると、イスラム教徒が入植することとなり、支配層であったカトリック勢力は駆逐され、ギリシャ正教が「復活」します。
1878年、キプロスはオスマントルコの宗主権の下で英国の保護領となり、第一次世界大戦後のオスマントルコ解体を経て1925年に植民地になりますが、1960年、英国からの独立を果たします。
しかし、キプロスの併合を画策してきたギリシャによって1974年にキプロスでクーデターが起きると、トルコはトルコ系住民の保護と称してトルコ軍を進駐させ、キプロス東北部(キプロスの37%)を占拠します。
(以上、http://www.kypros.org/Cyprus/history.html(10月5日アクセス)による。)
ギリシャが1981年にEU(当時はまだEEC)への加盟を認められる(http://www.europarl.org.uk/EU/textonly/txhistory.htm。10月5日アクセス)と、トルコはギリシャとイコールフッティングを確保するため(注4)、EU加入を目指すことになります。トルコは1987年に正式に加入を申請し、89年と97年に申請の受理を拒否されるもなおあきらめることなく頑張り続け、99年に至ってついに申請が受理されます(a)。

(注4)ガレス・ジェンキンスは、トルコはオスマントルコ時代より欧州を仰ぎ見てきており、EUなる「エリートクラブ」への加盟を国家の威信に関わる課題だと考えていると指摘している(a)。そのような理解も不可能ではないが、この点では私は見解をやや異にしており、トルコの領域保全への強迫観念(obsession)だけで説明が可能だと考えている。

この間、1989年にはベルリンの壁が崩壊し、東西冷戦が終わってNATOの存在意義は減少し、EU加入の重要性が一層増大しました。
   更に、キプロス(の西南部)が2004年時点でのEU加入を認められた(http://europa.eu.int/abc/history/index_en.htm。10月5日アクセス)ことは、トルコの焦燥感をいやがおうにも高めるに至っています。

   しかしEUは、トルコの欧州化はそれ自体が目的ではなくて、EU加入を達成するための粉飾的手段(masquerade)に過ぎないと見ており、現に欧州化が不十分・不徹底であるとしてトルコの加入に依然難色を示しています(a)。しかもその根底には非キリスト教文明に属するトルコに対する拒否反応があります。
他方でこのようなEUの建前及び本音は、欧州諸国が依然としてセーブル条約の「復活」によるトルコの解体を意図しているのではないかという、大時代的な疑心暗鬼をトルコ側に生んでいます(a)。
   (英国は、自分自身がEUに経済的理由で「便宜的」に加入しただけに、トルコの加入に同情的です。そもそも英国から見れば、英国を除くEU諸国たる欧州諸国もトルコも、自由と人権の確保を至上命題とするアングロサクソン文明には属していないという点では同じく「野蛮」であり、五十歩百歩なのです。)
   このようにEU加入問題もまた、解決は容易ではありません。

 (3)軍隊の優位性(supremacy)
   1946年の複数政党制民主主義の確立以降、政治家の醜い姿にトルコ国民は辟易し、軍隊の権威はむしろより高まったといいます。
   そして、何ら法的根拠があるわけではないのに、トルコの政治がケマリズムから逸脱し、イスラムに傾斜し始めると、ケマリズムを信奉する大半の国民の暗黙の支持の下、軍隊が介入して復旧するということを1960年以降、四回も繰り返してきました。
 (以上、b PP86)
   このような軍隊の優位性を咎めることは容易ですが、トルコが領域保全への強迫観念から解放されるとともに、根強いイスラム化への契機を払拭するだけ社会を近代化することによって、ケマリズムを脱ぎ捨て、トルコが(少なくとも現在の欧州諸国並みの)開放的な民主主義国家へと変貌して、初めてこの問題が克服される、と考えるべきでしょう。

(続く:最終回は、日本とトルコ・・なぜトルコに関心を持つべきか・・です。)