太田述正コラム#6076(2013.3.10)
<愛について(その7)>(2013.6.25公開)
ウ 終点としての愛:キリスト教とプラトン主義における「愛」
表記については、何度かこのコラムで登場したことのある、ジョン・グレイ(John Gray)(コラム#3218、3676、4242、5249)の新著 ‘The Silence of Animals: On Progress and Other Modern Myths’ の書評の下掲の記述に手がかりがあります。
「グレイに言わせれば、いわゆる近代世界は、組織化された宗教とその教義の手段群と目的群の頸城(くびき)から解き放たれることに成功したことは一度もないのだ。
欧米における我々の大部分は、自分達が世俗化された諸社会で生きていると想像しているが、人間事象に意味を作り上げる目的での宗教的はずみ(impetus)が、我々が何物であって、我々がどこから来て、そしてこれが最も顕著なことなのだが、我々がどこに向かっているのか、についての我々の諸仮定の大部分の背後に潜んでいる、というのだ。
グレイが繰り返し述べるように、我々は、間違いなく(precisely)どこにも向かってやしないのだ。
この世界は目的論<の世界>ではないのであり、次の革命の曲がり角を曲がった所に行ったとて、また、うず高く折り重なった死体の次の山の向こうに行ったとて、大団円など見えてこやしないのだ。・・・
現代の人文主義者達(humanists)は、進歩の観念を援用する時、二つの異なった神話・・ソクラテス的な理性の神話とキリスト教的な救済の神話・・とを混淆しているのだ。・・・
我々の動物性を忘れてしまうという災難が、とりわけ、人間の完全性の確信、及び、我々がこの地上における天国となるであろうところのものへ向かっての長い行進の途上にあるとの信条、という更なる災難へと我々を導いた。」
http://www.guardian.co.uk/books/2013/feb/15/silence-animals-john-gray-review
(2月16日アクセス)
この目的論的時間軸的思考を空間的上下軸に置き換えたものが、起点としての性愛から終点としてのキリスト教ないしプラトン主義の愛へという思考なのです。
同じ思考の産物が、ユダヤ系米国人のアブラハム・マズロー(Abraham Maslow。1908~70年)(コラム#2745)が、1943年に発表した、いまだに人口に膾炙しているところの、「欲求段階説(Hierarchy of Needs)」です。
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2013/02/24/2013022400097.html
(2月24日アクセス)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%8F%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%BA%E3%83%AD%E3%83%BC
彼は、人間は基本的な欲求を満たした後、上位の欲求を追い求めるという説を唱え、次のような欲求の段階があるとしました。
生理的欲求(Physiological needs)
安全の欲求(Safety needs)
所属と愛の欲求(Social needs / Love and belonging)
承認(尊重)の欲求(Esteem)
自己実現の欲求(Self-actualization)
(マズローは晩年、この5段階の欲求階層の上に、さらにもう一つの段階である、「自己超越の欲求(self-transcendence)があるとした。
なお、マズローはより高次の欲求に移行するためには現時点の欲求が完全に満たされる必要はないとしている点に注意が必要。)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E5%AE%9F%E7%8F%BE%E7%90%86%E8%AB%96
これは、「愛」と「帰属」とセットにした点と、「愛/帰属」を起点ではなく中間点にした点を除けば、欧米における「愛」に係る思考の焼き直しである、と言っても過言ではありません。
しかし、グレイの指摘を待つまでもなく、目的論的時間軸的思考は誤りなのであり、目的論的時間軸的思考を空間的上下軸に置き換えた思考もまた、誤りであることは言を俟ちません。
「愛」だろうが、「愛/帰属」だろうが、「生理的欲求」だろうが、そのいずれかを起点とし、そして、「キリスト教とプラトン主義における「愛」」だろうが、「自己実現」だろうが、「自己超越」だろうが、そのいずれかを終点とする世界になど、観念の上でも、また実証的にも、我々は生きていないからです。
例えば、マズローの説について言えば、(大人の場合、集団に)「帰属」するには若干なりとも「自己超越」を行う覚悟がないとだめそうですし、また、(子供の場合、家庭に)「帰属」さえできておれば、「生理的欲求」や「安全の欲求」や「承認(尊重)の欲求」は(親によって)自ずから充足できそうですからね。
(続く)
愛について(その7)
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