太田述正コラム#6078(2013.3.11)
<愛について(その8)>(2013.6.26公開)
エ 「愛」に代わる言葉の貧困さ
・empathy(共感/感情移入)
empathy(共感/感情移入)という言葉があります。
「共感/感情移入は、言語同様、それを正しく発達させるかどうかが特定の初期の諸経験のいかんによるところの、ごく自然な人間の特性(natural human quality)だ。
我々は、<人々が、適切に>養育されたり人と接触したりした経験を有する<社会においては、>子供達、家族、文化、そして経済がうまくいく傾向がある、と主張している。
しかし、<人々が>小さい時にこれらを経験しなかった場合・・今日の子供達が生息する諸環境の中では次第にこれらを経験できなくなりつつある・・<その社会における>創造的思考、進歩、及び、経済成長は危機に瀕してしまうのだ。」
http://www.psychologytoday.com/blog/born-love/201002/born-love-welcome
この「共感/感情移入」は、「愛」と一緒に語られることが多く、また、(以前にも述べたように、)下掲のような脳科学的裏付けがあります。
「「愛は脳を成長させる」。
・・・我々の脳は「ミラー・ニューロン群(mirror neurons)」を備えており、我々が目にするものをコピーすることによって、我々自身の頭の中で特定の働き(behavior)を引き起こさせる(entrench)。
単純明快にも(simply)、我々は、いかに自分達が面倒を見てもらったか(cared for)をコピーすることによって、他者達の面倒を見る<べき>ことを学ぶ。幼児の時に、より愛され、面倒を見られれば、我々は、より他者達の面倒を見たり愛したりする能力を持つのだ。」
http://www.infantmassageusa.org/research/book-reviews/born-for-love/
(2月14日アクセス)
しかし、(これまた、以前にも同じような趣旨のことを述べたことがありますが、)共感/感情移入ができる人が、人(や神/イデア)を「愛」するとは限りません。
共感/感情移入能力が高い人が、自分にとって最も苦痛なことを他人することで、その他人に復讐したり、その他人から情報を引き出したりする(=拷問を加える)ケースを考えてみてください。
ですから、前の方の引用文が、共感/感情移入能力の高い人々によって構成される社会では何事もうまくいく傾向がある、としているのは必ずしも正しくないと言うべきですし、後の方の引用文についても、ミラー・ニューロンの存在を紹介している部分を除き、やはり、必ずしも正しくないと言うべきなのです。
私は、他者等に「共感/感情移入」しないで、或いは、ミラー・ニューロンが働くことで他者等に「共感/感情移入」しつつ、つまりは、「共感/感情移入」するしないにかかわらず、他者等の「面倒を見」ることが「愛」である、と見て当たらずと雖も遠からずではないか、と思うのです。
結局、「愛」と「共感/感情移入」とは、次元の異なる概念であると言えそうなのであり、「love」に代わって「empathy」を用いる、というわけにはいきそうもありません。
・tenderness(優しさ/敏感さ)
tenderness(優しさ/敏感さ)という言葉に注意を喚起する見解があります。
「哲学者達、すなわち智慧のあるところの、<他者を>愛する者達は、愛、いやエロティックで浪漫的な愛についてさえ、思いを巡らせ記述してきたが、かの愛の分家(offshoot)たる優しさ/敏感さにはよそよそしい態度をとってきた。・・・
<哲学者ならぬ哲学的文学者であった>若きカミュ(Camus)<は>・・・以下のような、力強く優しい(tender)思考の煌めく一群を鋳造している。
そよ風は冷たく空は青い。
私はこの人生を思い切り愛しており、人生について大胆に申し述べたいと願っている。
人生は、私に人間の状況について誇りを覚えさせる。
それなのに、人々は私にしばしば次のように言う。
誇りを覚えるべきものは何もない、と。
いや、あるさ。
この太陽、この海、若さでもって跳ねている僕の心臓、しょっぱい僕の体、そしてこの、優しさと栄光が青と黄にまじりあっている巨大な風景。(『ティパサでの結婚(Nuptials at Tipasa)』<(注12)>より)
(注12)1938年の『結婚(Nupitals(Noces))』
http://en.wikipedia.org/wiki/Albert_Camus
を指しているのか、それともその中の一つの章的なものを指しているのかは不明。
仮に人生の第一次的な目的が、できるだけ多くの心地よく充足的な経験を集める旅人と自分自身を考えることというよりは、他人のことを気にかけ、他人と繋がっている人間になって行くことだとすれば・・これは大きな「仮に(if)」だが・・、間違いなく、優しさのための能力(capacity)が一つの役割を果たさなければなるまい。・・・
一般に、優しさは、増大された感受性を伴う。・・・
<レオ・トルストイの『イワン・イリイチの死(The Death of Ivan Ilych)』の最後の場面で、小さな息子がイワンの手を握って泣いた瞬間、彼は優しさに包まれる。(そして、息子等を苦しめていたところの、イワンの痛みも死の恐怖も消え失せ、彼は息を引き取る。)(注13)>
(注13)ざっとこの小説の感じを掴みたい読者のために。↓
http://www.eva.hi-ho.ne.jp/nishikawasan/ad/iwanno.htm
あらゆる文化は、これは殆んど文化の定義と言ってよいだろうが、特定の質と感覚を養成する。
米国では、決意、決断、そして七転び八起きがもてはやされる(lionize resolve, determination and resiliency)。
・・・<だから、>我々の文化では大部分の場合、優しさの感覚は、玄関の小さなつぼの中に置き去りにされる。
優しく感じるためには脆弱であると感じることだが、脆弱性は米国人の好きな料理ではないのだ。」
http://opinionator.blogs.nytimes.com/2013/02/13/try-a-little-tenderness/?ref=opinion
(2月14日アクセス)
「tenderness(優しさ/敏感さ)」は、「love(愛)」とはややズレているところの、「愛(love)」よりも好ましい概念のように思われます。
しかし、引用したこのコラムの筆者のような見解は、この筆者自身が言っているように、欧米においては、その歴史を通じ、殆んど見られないわけです。
(続く)
愛について(その8)
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