太田述正コラム#6122(2013.4.2)
<第一次世界大戦の起源(その5)>(2013.7.18公開)
「第一次世界大戦は、それが第一次世界大戦になる前には第三次バルカン戦争だった、とクラークは記す。・・・
累次のバルカン戦争への触媒となったのは、明らかに痛みを伴わなかったところの、1911年のイタリアによるオスマン帝国の州たるリビアの奪取<(注14)>だった。
(注14)伊土戦争(1911~12年)。トルコは、宗主権を残すという条件でリビアを実質的にイタリアに割譲することに同意したが、イタリアはそれでも開戦した。この戦争の結果、1912年の第一ローザンヌ条約及び1923年のローザンヌ条約で、イタリアは、オスマントルコのトリポリタニア(Tripolitania)、フェッザン(Fezzan)、キレナイカ(Cyrenaica)の3州を併合した。
http://en.wikipedia.org/wiki/Italo-Turkish_War
オスマントルコは、誰もが思い出せないほど昔から欧州の「病人」だったが、今やこの患者は臨終の昏睡状態にあった。
ブルガリア、セルビア、及びギリシャは、全て、イタリアが先導したものを追いかけ、トルコ領たるマケドニアとアルバニアをぶんどろうとし、その後、仲間割れを起こした、というわけだ。」(B)
「評決を自ら下すことこそしないけれど、クラークの見解は啓示的(revelatory)、いや革命的ですらある。
彼のテーゼは、第一次世界大戦なるものは、霞に包まれた大昔の出来事でも異なった時代のミステリー群でもなく、全くもって現代的な事件なのであって、今日の我々にとってなじみ深い形で始まった、というものだ。
すなわち、、明確な地理的な精神的支えがなく、かつ、膿んでいる諸不満と報いられない諸夢が巨大な地域全体に撒き散らされていたところの、犠牲と死を崇拝していたテロ集団によって・・。
この全ての不合理性に、更に、国益が培ったところの冷徹な理性(cool reason)という、国際関係においてあらゆるもののうち最も危険な要素が付け加わったのだ。・・・
それまでにも累次のバルカン危機があった。
実際、バルカンの過去には紛争以外に殆んど何もなかった。
しかし、地方的諸紛争が大きな火事へとエスカレートするのを防ぐ外交的諸メカニズムが消滅するにつれて、1914年に至る数年において、紛争の性格が根本的に変わったのだ。
こうして、バルカンでの諸紛争は、「欧州システムの地政学と分かち難くからみあうに至り、1914年の夏に、バルカンで始まった紛争が5週間以内に欧州大陸を飲み込むことを可能にしたところの、エスカレート・メカニズムの一揃いを創り出したのだ」とクラークは説明する。
それでも、武器がどんどん備蓄され、緊張が増大し、諸同盟が危険な不安定性を生み出していたというのに、戦争は遥かかなたの可能性のようにしか見えてなかった。
英国の外務事務次官にして地球中で仕事をした謹直なる外交官たるアーサー・ニコルソン(Arthur Nicolson)<(コラム#5036、5430)>は、1914年5月の時点で、「私が外務省に入ってからかくも凪いだ水面を見たことはない」と語っていたくらいだ。」(F)
「クラークは、・・・この戦争がどうして起こったかを後付で説明することよりも、どのように起こったのかを構築することの方を好む。
彼の方法論は、意思決定過程において働いていた諸可能性を再構成し、同時代人達が自分達が何をやっているかをどのように理解していたかを示す、というものだ。
これは斬新なアプローチだ。
彼は、指導的な人物達の生き生きした肖像群を提供する。
オーストリアの攻撃的な参謀総長であったコンラート・フォン・ヘッツェンドルフ(Conrad von Hotzendorf)<(注15)>を含む何人かは、7月危機が巨大な賭けを孕んでいたことから、ひどい精神消耗状態に陥った。
(注15)1852~1925年。テレジア士官学校、陸軍大学卒。「フランツ・フェルディナント皇太子の推薦により1906年に参謀総長に任命された。・・・彼は、皇太子同様に二重帝国内でのハンガリーの立場を弱めたいと考えていたが、多民族の帝国を安定させるには、・・・セルビアを自帝国に併合し、三重帝国としてハンガリーの比重を下げるのが良いと考えていた。またダーウィン主義者でもあり、戦争とは国家生存のために行うものであり、国家とは戦争し拡張するために存在すると捉えていた。・・・イタリアやセルビアに対する方針から外相アロイス・フォン・エーレンタール伯爵と対立し、1911年に参謀総長を更迭される。しかし1912年のバルカン戦争で緊迫する情勢を受け、皇太子の推挙で復職した。1914年6月にサラエヴォ事件でその皇太子がセルビア人青年に暗殺されたとき、コンラートは・・・セルビアに対する予防戦争の主唱者となった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%84%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%98%E3%83%83%E3%83%84%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95
ヘッツェンドルフは、ウィーンの産業家の妻のジーナ・フォン・ライニングハウス(Gina von Reininghaus)<(注16)>との長年にわたる情事によって、そんな自分を支えた。」(G)
(注16)ヘッツェンドルフの最初の妻が亡くなったのが1905年であり、彼は1915年にこのジーナ(エリザベス)と再婚した。
http://en.wikipedia.org/wiki/Count_Franz_Conrad_von_H%C3%B6tzendorf
(続く)
第一次世界大戦の起源(その5)
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