太田述正コラム#6148(2013.4.15)
<アフガニスタン人の排外意識>(2013.7.31公開)
1 始めに
 「アフガニスタンの場合、イラクほどは状況が悪くないとはいえ、タリバンに心を寄せる国民もそうでない国民もおしなべて、米軍を含め、外国勢力に対する排外意識が強く、そのような中で米軍等に味方するカルザイ政権等の人々の大部分は腐敗した新興買弁勢力である、ときています。これではPTSDになる兵士が続出しても決して不思議ではありません。」(コラム#6136)と申し上げたところです。
 おりしも、アフガニスタン人の排外意識を論じたコラムがNYタイムスに掲載されていた
http://www.nytimes.com/2013/04/14/opinion/sunday/why-karzai-bites-the-hand-that-feeds-him.html?ref=opinion&_r=0
ので、そのさわりをご紹介しておきたいと思います。
2 アフガニスタン人の排外意識
 「3月10日に、アフガニスタンの大統領のハミッド・カルザイ(Hamid Karzai)は、最近の<タリバンによる>諸攻撃は、タリバンが「米国に奉仕している(at the service of)」ことを証明した、と宣言し、欧米の指導者達に衝撃を与えた。
 その含意は明確だった。
 テロリスト達は、米国と結託して、米国が2014年に計画している撤退より前に、<アフガニスタンに>混沌を撒き散らそうとしている、というわけだ。
 カルザイ氏の政府を守るために血とカネを費やしたことに思いをはせつつ、米国と欧州の指導者達は、当惑し、気分を害した。・・・
 ・・・カルザイ氏は、ポパルザイ(Popalzai)部族の長老だが、彼は、19世紀央において、アフガニスタンで欧米諸国によって初めて体制変革の試みがなされた間に、英国によって注意深く選ばれたシャー・シュジャー・ウル=マルク(Shah Shuja ul-Mulk)<(注1)>の直系の部族的子孫なのだ。・・・
 (注1)Shuja Shah Durraniとも呼ばれる。デュラニ帝国(コラム#5118)の国王:1803~09、1839~42年。
http://en.wikipedia.org/wiki/Shah_Shujah_Durrani
 「彼は、彼は兄のマフムード・シャーを追放し・・・1801年・・・自らアフガニスタンの王を宣言したが、・・・正式に即位したのは、1803年・・・であった。<彼は、>1809年<に>大英帝国と同盟し<たが>、それはナポレオンとロシア帝国の共同によるインド侵攻に対抗する意味合いがあった。1809年・・・、彼は前王マフムード・シャーにより廃位させられ、インドに亡命した・・・1839年・・・シュジャーは<英国>の手により、廃位からおよそ30年ぶりに王位を回復した。しかし、<英国>が撤退したとき、彼にはもはや何の力も残されては<おらず、>1842年・・・彼は・・・暗殺された。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC
 今日では、シャー・シュジャーは、欧米の傀儡であるとして、アフガニスタンで広く罵られている。
 1842年に英国を敗北させたワジール・アクバル・カーン(Wazir Akbar Khan)<(注2)>と彼の父親のドースト・ムハンマド(Dost Mohammed)<(注3)>は、広く民族的英雄と見られている。
 (注2)1816~45年。第一次アフガン戦争(1838~42年)において、とりわけその英軍殲滅戦(下出)で活躍。彼の野心を恐れた父国王によって毒殺されたと信じる者が多い。
http://en.wikipedia.org/wiki/Akbar_Khan
 (注3)1793~1863年。アフガニスタン国王:1835~63年。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%A0%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%B3
「1835年にドースト・ムハンマド<は>・・・バーラクザイ朝アフガニスタン首長国を興した。・・・<英国>は、ロシア帝国の南下政策に対抗するためにアフガニスタン国内への軍の進駐を<企図した>。・・・<英領>インド総督である第2代オークランド男爵ジョージ・イーデンは・・・旧王家サドザーイー族の<シャー・シュジャーら>・・・を支援して1838年にアフガニスタンに対し宣戦を布告した(シムラ宣言<=>Simlah Manifesto)。1839年1月、<英>東インド会社軍<が>・・・アフガニスタン領内に入ると、・・・ドースト・ムハンマドは・・・<英国>に敗れて投降した。東インド会社軍は一旦アフガニスタンを平定し、<シャー・シュジャー>国王を復位させたが、・・・アフガニスタンの各地で侵入軍に対する反乱が勃発し<たこともあり>、1842年1月、カーブルに駐留していたイギリス軍は撤退した。カーブル撤退時の冬季の峠越えとアフガン兵の襲撃により、兵士・人夫計1万6千人が全滅し・・・<シャー・シュジャー>国王も殺害された。同年秋、<英国>は、報復のために再び派兵し・・・たが、・・・戦争の継続を断念し、英領インドに捕らえられていたドースト・ムハンマドの帰国と復位が認められて、第一次アフガン戦争は終結した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%95%E3%82%AC%E3%83%B3%E6%88%A6%E4%BA%89
 カルザイ氏は、このような話と共に彼の人生を生きてきたのであり、それが彼を<欧米にとって>むつかしい同盟者たらしめている。
 だから、彼は、自分自身と自分の後援者達<たる欧米諸国>との違いを強調することに常に汲々としており、自分を飼っている者達の手を継続的に噛んでいる印象を与えようとしてきた。・・・
 現在の戦争と1840年代の戦争の類似性は衝撃的だ。
 新しい旗群、新しいイデオロギー群、そして新しい政治的人形使い群を装いつつ、同じ部族的敵対群が存在し、同じ諸戦闘が同じ場所群で戦われているのだ。
 <また、>同じ言語群をしゃべる外国の諸部隊が同じ都市群に駐屯し、彼らは、同じ丘群や高原の峠群から攻撃を受けている。
 シャー・シュジャーはカルザイ氏と同じポパルザイ亜部族(sub-tribe)出身であるだけでなく、彼の主敵であったギルザイ<亜部族>(Ghilzais)は、今日、タリバンの歩兵の過半を占めている。
 <タリバンの総帥の>ムラー・オマール(Mullah Omar)はギルザイだし、1841年に英軍の殺戮を監督したレジスタンス戦闘者たるムハンマド・シャー・カーン(Mohammad Shah Khan)<(注4)>もそうだった。・・・
 (注4)ワジール・アクバル・カーンは、アミール・アクバル・カーン(Amir Akbar Khan)ともムハンマド・アクバル・カーン(Mohammad Akbar Khan)とも呼ばれていた
http://en.wikipedia.org/wiki/Akbar_Khan 前掲
ので、amir=emir=首長/王族≒shah=イラン国王であることから、ムハンマド・シャー・カーンは、ワジール・アクバル・カーンのことではないか。
 英国の偉大なる諜報元締めであったサー・クロード・ウェード(Claude Wade)<(注5)>は、1839年の<英軍によるアフガニスタン>侵攻の直前に、「我々自身の諸制度が卓越していると見ることと共に、これらを新しいまだ試されていない人々の下に導入することへの不安を我々が示すことに、我々はしばしば慣れ過ぎてしまっているところ、かかる傲慢なる自信ほど、恐れるべきもの、或いは警戒すべきものはない、と私は思う」と警告している。
 (注5)Claude Martin Wade(1794~1861年)。インドに生まれ、パンジャブ地方と北西辺境地区に係る、英領インド総督のエージェント。最終階級は大佐。
http://en.wikipedia.org/wiki/Claude_Martin_Wade
 <そして、>この、民主主義普及への早期の批判の中で、彼は、「このような干渉は、暴力的反応を呼び起こさないまでも、常に、辛辣な諸議論を引き起こすことだろう」と結論付けた<ところ、このことを我々は思い出さざるをえない>。」
3 終わりに
 このような強力な排外意識の下、冷たい目で見られているところの、政権を維持するためには、ただ単に、欧米諸国に噛みつくだけでなく、協力的な有力者達をカネで籠絡して繋ぎとめておくほかないのであり、だからこそ、カルザイ政権はひどく腐敗せざるをえないのです。
 そして、このような腐敗がますます人心を政権から離間させる、という悪循環にカルザイ政権は陥っているのです。
 このような、厳しく、かつ悲しい環境のアフガニスタンにおいて、中心となって戦っている、孤独な米兵達の中から、PTSDに罹る者が続出するのは当然でしょうね。