太田述正コラム#6152(2013.4.17)
<迫害を捏造したキリスト教(その5)>(2013.8.2公開)
(5)迫害神話がもたらしたもの
「迫害は、その全部が真実ではないとまでは言わないが、必ずしもその全てが真実ではないところの諸物語がからんでいるという意味において神話であるだけではない。
それは、迫害の諸物語は、二値的両極(binary opposites)の、しかも自分自身の側(one’s own side)<の極>が正しい(right)という仮定が常になされる、という形で考える世界観を形成するという意味においても神話なのだ。
モスがこの本の中で提供する具体的な諸事例には、他のキリスト教徒に恐怖を起こさせたキルクムケリオーネス運動(Circumcellians)<(注13)>や積極的に殉教者たらんとした者、が含まれるところ、この殉教者達と殉教者予備軍の範疇には、今日のキリスト教徒が、尊敬すべきと感じる人々だけでなく、気にくわない方式で行動したと考えるであろう者も含まれることが明白だ。」(B)
(注13)「4世紀の北アフリカで活動したキリスト教異端の民衆運動。・・・キルクムケリオーネスはもともと、社会的な不満の是正をもとめた下層農民(季節労働者)の階層であったが、やがてカルタゴのドナトゥス派<(Donatists)>と結びつくようになった。ドナトゥス派は私有財産制度や奴隷制度を非難し、負債の免除と奴隷解放を主張した。キルクムケリオーネスは、反ローマ・反カトリックの立場を取るドナトゥス派を支え、ローマに対する反乱に参加する集団でもあった。キルクムケリオーネスには、熱狂的なドナトゥス派や逃亡農民・犯罪者なども参加し<たが、>・・・その思想と行動には、純潔・節度・謙遜・慈悲といった価値に重きを置くドナトゥス派とも相容れないものもあった。・・・ドナトゥス派は殉教者の墓に特別な栄誉を与えるなど、殉教を尊重し、殉教への強い情熱を抱いていた<が、>キルクムケリオーネスは、文字通り「殉教」こそがキリスト教の美徳であると考えるようになり、あらゆる手段を用いてでも「殉教」を果たすことに宗教的な情熱を傾けることになった。かれらは、 Israelites(イスラエル人)と呼ぶ棍棒で武装し、街道において Laudate Deum! (ラテン語で「神をたたえよ」の意)と叫びながら旅人を襲撃した。棍棒を用いたのはイエス・キリストがゲッセマネの園でヨハネに対して告げた「剣をさやに納めなさい」という言葉(ヨハネ 18:11)を解釈し、剣のように刃のついた武器を避けたためである。襲撃の目的は「勇敢な殉教者の死」、すなわち襲撃を受けた被害者が反撃し、襲撃者を殺害することを望んでのものであった。・・・かれらが追い求めた殉教は、加えられた迫害によって達せられることとなった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%83%A0%E3%82%B1%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%82%B9%E9%81%8B%E5%8B%95
そのメンバーだったのはベルベル族。ちなみに、キルクムケリオーネスというのは、ドナトゥス派による他称であり、彼らの自称はアゴニスティキ(agonistici=(キリストのための)戦士達)だった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Circumcellions
なお、ドナトゥス派成立の「きっかけとなったのはカエキリアヌスがカルタゴの司教(主教)に任職された際、カエキリアヌスが過去、ディオクレティアヌスの弾圧時に聖書・聖物を官憲に渡し棄教した者であったため、ヌミディア[(現在のアルジェリア北東部周辺)]の司教達がこの任職を承認せず、別にマヨリヌスをカルタゴ司教に任じ、マヨリヌス死後には学識と実行力に優れたドナトゥスがカルタゴ司教に立てられたことにあった。この指導者である司教ドナトゥスが、この派の名称「ドナトゥス派」・・・の名の由来である。ローマ皇帝コンスタンティヌス1世は教会の統一を望んで313年にローマで教会会議を開き、ここでカエキリアヌスの地位の正当性が承認されたが、ドナトゥス派はこれに従わなかったため弾圧された。<また、>411年に・・・行われたカルタゴ会議では、アウグスティヌスがドナトゥス派への反駁の先頭に立った。・・・この論争のテーマは、人の罪がサクラメント<(機密・秘蹟・聖奠・礼典)>の有効性に影響するのかどうかにあった。結局、主流派となった教会においては、・・・サクラメントは一度棄教した者によるものであっても有効である事が確認された。・・・カルタゴ会議でも論争に決着が着かなかったのち、皇帝ホノリウスにより統一令が発布され、ドナトゥス派は単なる分派ではなく異端と宣告された・・・。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%8A%E3%83%88%E3%82%A5%E3%82%B9%E6%B4%BE
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8C%E3%83%9F%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2 ([]内)
「<迫害神話がもたらした>本質的観念は、我々に対して彼ら、善に対して悪、という両極化(polarization)だった。
4世紀にコンスタンティヌスがキリスト教を一つの国家宗教(state-sponsored religion)として認めるや否や、若干のキリスト教徒達は攻勢に転じた。
彼らは、死んで殉教者になるという高い希望を抱き、破壊するために異教の寺院群を物色した。
ディオクレティアヌスの下での本物の迫害の記憶は、キリスト教徒達をして、今や公民権をはく奪された諸異教徒達に手を差し伸べさせたり寛大になったりさせることはなかった。
それどころか、初期のキリスト教の著述家達によって不朽のものとされた迫害の修辞は、この世界に係る両極化された見方を創造し、それは暴力に次ぐ暴力を生み出すに至ったのだ。」(A)
3 終わりに
私見では、一神教と殉教(martyr)観念ないし二値的正義(binary righteousness)観念とは論理的関連性があるのであって、ユダヤ教はまさにそのような宗教であったわけです。
このユダヤ教の分派とも言うべきキリスト教とイスラム教に殉教ないし二値的正義観念があるのは当然である、と思うのです。(これに加えて、この三つのアブラハム系宗教は終末論観念も共有しているわけですが、ここでは、この点には立ち入りません。)
だからこそ、原理主義的キリスト教徒や原理主義的イスラム教徒は、世界を単純に敵味方に分ける形で理解しがちであり、彼らの間では、正義を体現する味方を守り悪を体現する敵を殲滅するための殉教的行動がもてはやされがちなのである、ということです。
戦間期から先の大戦にかけて、米国人が、現在以上に原理主義的キリスト教の影響下にあり、しかも、彼らの大部分が人種主義者であり、その上、彼らが米国以外の国や社会については本質的に無知であることが、いかに彼らの世界認識を歪んだものにしたか、しかもそんな米国民が構成する国家である米国が既に当時潜在的に世界覇権国であり、強力な力を有していたことが、どれほどの惨禍を世界、就中有色人種の住む東アジアにもたらしたかは、ご存知のとおりです。
すなわち、米国は、東アジアにおいて、日本帝国を敵と見、蒋介石政権や中国共産党を味方と見、更に赤露までも味方と見て、先の大戦において、正義の旗を掲げて日本帝国と戦ってこれを打倒したというのに、戦後は、一転、(蒋介石政権を見限りつつ、)中国共産党政権(中共)と赤露を敵と見、新生日本を味方と見て、またもや正義の旗を掲げて、今度は、赤露と中共とは冷戦を戦い、共産朝鮮と共産ベトナムとは熱戦を戦うに至るわけですが、これが一人の人間のやったことであったとすれば、その人間は知恵遅れか精神障害者である、と認定されることは請け合いです。
米国の対外政策に係る異常性のよってきたるゆえんを、私としては、ようやく本シリーズでもって、ほぼ説明し尽くすことができたと思うのですが、いかがでしょうか。
(まだ、説明し尽くしていないのではないか、という疑問をお持ちの方もおられるでしょうが、米国の恵まれた地勢なる生煮えの議論を叩く形で、明日、ささやかながら、その疑問にお答えする予定です。)
(完)
迫害を捏造したキリスト教(その5)
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