太田述正コラム#6160(2013.4.21)
<映画評論39:マリー・アントワネットの首飾り(その2)>(2013.8.6公開)
4 首飾り事件の評価
 (1)公妾等に係る顕示的浪費
 映画には、史実と乖離している箇所もいくつかある
http://en.wikipedia.org/wiki/The_Affair_of_the_Necklace
のですが、以上、ご紹介したところの、史実の幹の部分に関しては、映画は忠実です。
 私が最も驚いたのは、ルイ15世の恐るべき浪費振りです。
 一人の公妾であるデュ・バリー夫人(Madame du Barry。1743~93年)に(すんでのところで未遂に終わったけれど)200億円の贈り物ですよ。
 それまでに、彼女がどれだけの贈り物を国王から受け取っていたのか、想像もつきません。
 彼女は、「<もともとは>娼婦同然の生活をしていたようだが、・・・やがてデュ・バリー子爵に囲われると、貴婦人のような生活と引き換えに、子爵が連れてきた男性とベッドを共にした。家柄のよい貴族や学者、アカデミー・フランセーズ会員などがジャンヌの相手とな<っていたが、>・・・1769年にルイ15世に紹介された。5年前にポンパドゥール夫人を亡くしていたルイ15世は、ジャンヌの虜になって彼女を公妾にすることに決める。<公妾は既婚者でなければならないとの慣例に従い、>デュ・バリー子爵の弟と結婚してデュ・バリー夫人と名を変えたマリ・ジャンヌ<は>、・・・イヴリーヌ県のルーヴシエンヌ城を・・・贈<られ>た。ルイ15世が天然痘に倒れると・・・その看病に努めていたが、・・・危篤に陥ったルイ15世から遠ざけられ・・・<、その後、>ド・ブリサック元帥・シャボ伯爵、イギリス貴族のシーマー伯爵達の愛人になった。・・・<フランス革命後、>1793年3月に帰国したところを革命派に捕らえられ、・・・ギロチン台に送られた。・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%A5%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%AA%E3%83%BC%E5%A4%AB%E4%BA%BA
という人物です。
 そもそも、彼女は、最初に城を一つ贈られているわけです。
 しかも、ルイ15世の公妾はデュ・バリー夫人だけではありませんでした。
 彼女の前には、余りにも有名なポンパドール夫人(Madame de Pompadour)がいました。
 ポンパドゥール侯爵夫人ジャンヌ=アントワネット・ポワソン(Jeanne-Antoinette Poisson, marquise de Pompadour。1721年~64年)は、「銀行家の娘として生まれる。・・・1744年にはその美貌がルイ15世の目に留まった。彼女はポンパドゥール侯爵夫人の称号[と領地]を与えられて夫と別居し、1745年・・・正式に公妾として認められた。[それまでの国王の愛人はみな貴族階層出身だったのに対し、彼女がブルジョワ階層出身であることが人々には不評で、彼女は様々な誹謗にさらされることになる。]・・・<公妾>となったポンパドゥール夫人は、湯水のように金を使って、あちこちに邸宅を建てさせ(現大統領官邸エリゼ宮は彼女の邸宅のひとつ)、やがて政治に関心の薄いルイ15世に代わって権勢を振るうようになる。・・・<彼女は、>30歳を越えたころからルイ15世と寝室を共にすることはなくなったが、・・・ルイ15世はポンパドゥール夫人が42歳で死ぬまで寵愛し続けたという。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%B3%E3%83%91%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%A4%AB%E4%BA%BA
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A415%E4%B8%96_(%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E7%8E%8B) ([]内)
という人物ですが、彼女がもらった城(宮殿)はいくつもあった上、デュ・バリー夫人とは違って、領地までもらっていたわけです。
 この2人以外にも、「ルイ15世は、王妃マリー・レクザンスカと結婚から数年間は仲睦まじかったが、・・・王妃がほぼ年中妊娠していたこともあって、・・・1734年頃から公的愛妾を持つようになり、ネール侯爵家の姉妹を寵愛した。最初にマイイ夫人、次に妹のヴァンティミーユ夫人そしてシャトール侯爵夫人である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A415%E4%B8%96_(%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E7%8E%8B) 上掲
というありさまであったところ、ポンパドゥール夫人は、ルイ15世と寝室を共にしなくなってから、「ヴェルサイユの森に・・・鹿の園<という>・・・娼館<を>・・・開設したとされ<、娼婦達は>・・・名を伏せて訪れるルイ15世に性的な奉仕を行った。ルイ15世と娼婦の間に生まれた子には年金を保障し、男子は将校に取り立て、女子には良縁を取り次いで面倒を見た。鹿の園にいた女性ではマリー=ルイーズ・オミュルフィ<(注3)>などが知られている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E3%81%AE%E5%9C%92
という次第なのですからね。
 (注3)フランソワ・ブーシェが描いた彼女の裸体画(鹿の園に招かれる前のもの)を御覧じよ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%83%BC%EF%BC%9D%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A3
 
 一体、公妾/娼婦関係経費だけで、ルイ15世はいくらカネを使ったのでしょうか。
 その大部分が、一般民衆にも分かる形で使われた、ということを考えてもみてください。
 ルイ15世の孫で彼の後を継いだ「ルイ16世<は>側室や愛人を生涯において一人たりとも持たなかった」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AF%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88
というのに、首飾り事件で、ルイ15世の公妾等に係る顕示的浪費の記憶がフランスの一般民衆の間に蘇ったであろうことは想像に難くありません。
 しかも、この首飾りが、もともとはデュ・バリー夫人に贈られるはずであったことは、王室に対する一層の悪感情を一般民衆の間で醸成した、と考えられます。
 何と言っても、「ルイ15世晩年の数年間は外務卿兼陸軍卿のショワズール公が政権を担っ」ていたところ、戦費が嵩んで陥っていた財政危機を打開するために「聖職者、貴族を含む全国民を対象とした「二十分の一税」の導入<等>に取り組んだ」ルイ15世にパリ高等法院が反対を続けたため、ルイ15世は、この「パリ高等法院に迎合的なショワズール公を罷免」するとともに、「パリ高等法院の司法官の追放、司法官職売官制の廃止、上級評定院の設置といった司法改革を断行」した結果、「失脚したショワズール公派とパリ高等法院の法服貴族たちが、デュ・バリー夫人を元娼婦と非難する小冊子を作成して広め、国王の権威を・・・貶めることに」努めた、という経緯があった
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A415%E4%B8%96_(%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E7%8E%8B) (前掲)
のですから・・。
 
(続く)