太田述正コラム#6174(2013.4.28)
<ドイツ中心近代史観(その2)>(2013.8.13公開)
 (2)欧米の勃興
 「<この本>は、刺激的で印象的な歴史書であり、1453年のオスマントルコのコンスタンティノープル征服から始まり、今日にまで及ぶ。
 今日は、欧州がより緊密な統一体へと進化するのか、国民国家群の緩やかな連合(confederation)のままにとどまるのかが、主としてドイツにおいて決定されるであろう時だ、とシムズは述べる。
 今日では、全球的事象(affairs)における欧州の中心性は昔日のごとくではない。
 二つの世界大戦、ドイツの平和的統一を許したところの冷戦の終焉、そしてアジア太平洋地域の爆発的な経済成長がその理由だ。」(A)
 「何よりもまず、<1405年
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%A0%E3%83%BC%E3%83%AB
の>ティムール(Tamerlane)の死は、一千年に及んだところの、ユーラシアのステップ地帯からの侵攻を終わらせた。
 遊牧的なエフタル(Hephthalites)<(注1)>、匈奴、アヴァール人、タタール人、或いはモンゴル人が欧州を荒らすことはもうなくなったのだ。
 (注1)「5世紀中頃に現在のアフガニスタン東北部に勃興し、・・・6世紀の前半には中央アジアの大部分を制覇する大帝国へと発展し、・・・最盛期を迎えた<が、>・・・その後6世紀の中頃に入ると、・・・中央アジアの草原地帯に勢力を広げた突厥の力が強大となって脅かされ、558年に突厥とサーサーン朝<ペルシャ>に挟撃されて10年後に滅ぼされた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%95%E3%82%BF%E3%83%AB
 エフタルは、欧州どころか、東ローマすら脅かしたことがないのに、ここでエフタルに言及された理由は不明。
 なお、ティムールも、直接欧州と接触があったわけではないが、同時代人たる欧州人がティムールに強烈な印象を抱いたことは事実だ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%A0%E3%83%BC%E3%83%AB 前掲
 第二に、船舶建造と航海における進歩が、アラブ人、支那人双方における海外探検の放棄と相俟って、諸大洋を欧州人に開放した。
 その諸結果が西欧を強化することとなり、その、東欧とアジアに比べての優位をもたらした。
 ペルーの銀がスペインを溢れさせ、スペインから東方のハプスブルグの所領群に至るまでが、量的緩和ならぬ通貨が注入されたことは、欧州に空前の購買力を提供した。<(注2)>
 (注2)「ポトシ銀山<等で産出された>・・・莫大な銀の流入は<欧州>に一世紀以上に渡る物価の騰貴(超インフレによる価格革命)をもたらし、それにともなう企業者利潤の増大が資本の蓄積を容易にし、やがて来たるべき資本主義体制への移行の基盤を築くことにな<ったとされる。>」
http://www.k5.dion.ne.jp/~a-web/espanaMmo.htm
 アフリカ人奴隷達は、欧州諸国の労働力にエネルギーを与える安い砂糖を提供したところのマンパワーを与えた。<(注3)>
 (注3)「1650年代からはカリブ海域・・・のイギリスやフランス領・・・において大規模な砂糖プランテーションが相次いで開発され、この地方が砂糖生産の中心地となった。砂糖プランテーションには多くの労働力が必要だったが、この労働力は奴隷によってまかなわれ、アフリカから多くの黒人奴隷がカリブ海域へと運ばれた。ここで奴隷船は砂糖を買い付け、ヨーロッパへ運んで工業製品を購入し、アフリカで奴隷と交換した。この三角貿易は大きな利益を上げ、この貿易を握っていたイギリスはこれによって産業革命の原資を蓄えたとされる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%82%E7%B3%96
 シムズは、アフリカと南北アメリカの欧州の発展への貢献を詳論することはしないし、ドイツやベルギーのアフリカにおける帝国に言及することは全くない。
 シムズの説明によれば、これらの経済的諸力は、より目に見えない諸力、とりわけ、伝統的諸原則を乗り越える準備をするとともに現在と異なる未来を予見するよう宗教に強いたところの、欧州的政治思想の発展と哲学者群の出現に比して全くもって副次的だったのだ。」(B)
→欧州の中心性が19世紀末には既に失われていたというのに、全球的帝国となっていた英国において、第一次世界大戦前と第二次世界大戦前に、たまたまその自覚に乏しい人物群が権力の座にあったことが、できそこないのアングロサクソンたる潜在的全球的帝国の米国を巻き込む形で、世界に大惨劇をもたらした、と私は主張しているわけです。
 また、このこととも密接に関係していることですが、シムズは、近代欧州史を一体のものとして見ているのに対し、私はアングロサクソン対欧州大陸という枠組みで見ているところです。(太田)
 (3)外交・軍事の中心性
 「<著者の>主要な観念のその一は、「外交政策の優位(primacy)」だ。
 あらゆる国家は、我々のような島国でさえ、自身の安全保障を第一の関心事項とせざるをえなかった。
 安全保障とは、同盟諸国及び敵の諸国との関係を管理するとともに、彼らのために、或いは彼らに対して戦争に行くことだ。
 これは、国内的諸関心事項に勝つだけではない。
 それは、国内諸政治及び国家内における政府の性格(nature)をもかたどる。
 従って、欧州の全ての歴史は、国際的な、トップダウン的な形で書かれなければならない。
 すなわち、<欧州の全ての歴史は、>諸国家からなる相互作用的(interactive)「システム」が最初に来なければならないのだ。」(E)
→この点は、完全に同意です。
 更に言えば、日本が開国した(させられた)時点から以降の世界の全ての国も、「外交政策の優位」の下で行動するようになり、現在に至っている、と言ってよいでしょう。
 この点は、戦後の、米国の属国へと身を窶したところの、吉田ドクトリン下の日本においてすらあてはまる、と私はかねてから指摘しているところです。(太田)
(続く)