太田述正コラム#6178(2013.4.30)
<ドイツ中心近代史観(その3)>(2013.8.15公開)
 (4)ドイツの中心性
  ア 総論
 「<ドイツを形容する>言い習わしとしては、<欧州全体の公共善の観点から見て、ドイツは>「やったらクソくらえだがやらなかったら<やっぱし>クソくらえだ」、というのもある。
 ドイツ人達は、正しいことをやることが全くできないように時々見える<、というわけだ。>。・・・
 <近代欧州史におけるドイツの中心性がどこから来るかと言うと、>まずもって、ドイツの諸地の大きさ、その豊かさ、そして人口の多さがあげられる。
 これらの要素は、ドイツの隣人達をして、この土地の大きな塊群を手に入れたいと不可避的に欲せしめる。
 次に中心的位置ということがある。
 ドイツは、欧州の心臓部にあり、このことは、諸外国の軍隊が、この国を、しばしば、戦場として、或いはどこか他に赴く際に進軍する通過域として、用いてきたということだ。
 主要な欧州の諸大国は、しばしば、ドイツを、欧州支配の観点から、彼らとその競争相手達との間の緩衝国家と見てきた。
 <また、>神聖ローマ帝国は、政治的正統性(legitimation)の源泉と見られた。
 イギリスとフランスの君主達は、全員、ドイツ皇帝の座を勝ち取ろうと試みた。
 オスマン帝国のスルタンのスレイマン壮麗帝(Suleiman the Magnificent)<(注4)>でさえ、この<神聖ローマ>帝国の遺制(legacy)<たる帝位>を主張しようと試みた。・・・
 (注4)スレイマン1世(1494~1566年。在位:1520~66年)。「1521年からは外征に乗り出し、・・・翌1522年に聖ヨハネ騎士団からロードス島を奪<い、>・・・1529年に第一次ウィーン包囲を敢行し<、>・・・<1533年にはアルジェリア、1534年にはイラクを獲得し、>・・・1538年のプレヴェザの海戦でスペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇の連合艦隊を破り、地中海の制海権を握<り、>同年にモルドバへ遠征し従属国クリミア・ハン国との通路を確保、黒海も事実上支配下に収め<、・・・1538年にはアデン、1541年にはトランシルヴァニアとハンガリー(一部)を獲得した。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%83%B31%E4%B8%96
 既に17世紀には、一人のスウェーデンの外交官が、ドイツは、「全欧州上に絶対的支配を打ち立てる」ために必要な諸条件を全て保有している、と主張している。」(H)
 「(イギリスのヘンリー8世とトルコのスレイマン壮麗帝は、カール5世の代わりに皇帝に選出されようとする発作的な試みさえ行った。)
 1806年に何の儀式もなくこの帝国が解消されると、ドイツを封じ込める(contain)ための闘争が、累次の欧州戦争、そして世界戦争の中心テーマ(leitmotif)となった。・・・
 この帝国は、有名な話だが、ヴォルテールによって、神聖でも、ローマ的でも、帝国でもなかった、と描写された<にもかからわず・・。>」(C)
 「シムズの主要な関心事項は、欧州において、地理的にだけでなく、政治的にも、ドイツが中心に位置している点にある。
 すなわち、ドイツは、シムズにとっては、1918年に至るまで、フランスのみがまともな競争者であったところの、至高性(supremacy)に向けての闘争の勝者なのだ。
 その理由は、世紀によって異なるが、シムズは、ハプスブルグ<の頭首>達、或いはビスマルク、或いはヒットラーが欧州大陸(mainland Europe)を、様々な時代に支配することを可能にしたところの、いくつかの諸要素を、彼の前任者達よりも恐らくより説得力ある形で、摘示する。
 第一に、17世紀央以来、ドイツ人達は、テュートン的自尊心によって<相互に>和解しつつ、小国家群の連合(union)の中でプロテスタントとカトリック教徒が共生することを可能にするところの、宗教的分立を超える民族的(ethnic)、言語学的統合性(unity)を促進した、唯一の主要な民族(nation)であり続けてきた。
 第二に、シムズは、(挿入句的にこの本の諸所でなされている主張だが、)ドイツ人達は、皇帝、国王、或いは選帝者と何らかの形態の国会ないし議会との間の妥協によって統治されてきたことから、極めてしばしば、協議(consultation)に立脚した諸決定を行うことが可能であったのに対し、ドイツ以外の者達は、リベルム・ヴェト(liberum veto(自由拒否権))<(注5)>によるところのポーランド人達のような)権力の委任(delegation)の過剰によって麻痺するか、または、無拘束の(untrammelled)絶対主義によって過ちだらけになる(made erratic)か、そのどちらかだった、ということを示唆しているように見える。」(B)
 (注5)「ポーランドとリトアニア・・・は共同の独立国家・・・<である>ヤギェウォ朝<(1385~1569年)>・・・を3世紀以上にわたって維持し<た。>・・・この時期、<欧州>では君主に権力が集中して蓄積されていく状況が生まれていたが、ポーランド・リトアニアでは土地所有貴族の主導による明確な地方分権の政治システムが発展しつつあり、王権が厳しい制限を受け続けていた。・・・<他の欧州の>諸国と比べれば貴族の数がとても多かった<ところ、彼ら>・・・は貴族(と僧侶と学識経験者)の議会であるセイムに対する王権からの多くの譲歩や保証を引き出し、これによってセイムは国政における決定的な支配力を獲得し、ついには立法権を独占するようになった。・・・セイムは全会一致の原則を導入し、個々の貴族一人ひとりが主権を持つのだと見なした。・・・<これが>リ<ベ>ルム・ヴェト(自由拒否権)<である。>・・・貴族たちは原則的には国王を選挙で選ぶという重要な権利を持っていたが、ヤギェウォ家の人々は事実上の世襲王家としてほぼ公的に認められており、立候補者は基本的にはヤギェウォ家の血を引く人物が望ましいとされた。実際、ヤギェウォ家の国王たちは自分の息子を後継者として認めさせるために、貴族たちに特権を与え続けねばならず、必然的に王権は弱体化していった。ヤギェウォ朝は、名君の誉れ高いジグムント2世アウグストが息子を残さず死んだことで終わった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
(続く)