太田述正コラム#6180(2013.5.1)
<ドイツ中心近代史観(その4)>(2013.8.16公開)
イ 各論
以下の引用をお読みになれば、それは総論の範疇に属すのではないかと思われる箇所もあるでしょうし、同じ話が何度も出て来るとお感じになる場合もあるでしょうし、そもそも、年代順に並べられなかったのかと思われることもあろうかと存じますが、シムズの本の核心部分であるがゆえに、タテヨコ斜め等、あらゆる角度から紹介させていただくことにした次第なので、どうかあしからず。
「ビザンツ帝国が崩壊しイギリスが永久にフランスから追い出された1453年前後からの欧州史は、中欧をいかに秩序付け、管理するかという問題を中心に今日に至るまで展開することになった。
カール5世、フェリペ2世、スレイマン壮麗帝、クロムウェル、マザラン(Mazarin)<(注6)>、ルイ14世、ナポレオン、メッテルニヒ(メッテルニッヒ。Metternich)<(注7)(コラム#2121、5228)>、ビスマルク、ロシア諸皇帝、ヒットラー、そしてメルケルは、みな、東部フランス、低地諸国、そしてバルカン諸国の間の空間の中で自分達の力の影響力を行使するために闘争した。
(注6)Jules Mazarin。1602~61年。フランスに帰化したイタリア人たるフランスの政治家、枢機卿。「1643年にルイ13世が・・・死ぬと、摂政となった大后アンヌ・ドートリッシュの相談役兼ルイ14世の教育係とな<った>・・・が、実質的な宰相であった。・・・1661年にマザランが死ぬと、翌日ルイ14世は親政を宣言<している。>・・・外交・軍事面ではハプスブルク家との対抗を重視、三十年戦争への介入を続け、1648年、<ウェストファリア>条約でアルザスの大部分及びヴェルダン・メッツ・トゥールをフランス領に取り込んだ。1659年には<イギリス>共和国の護国卿オリバー・クロムウェルと結んで・・・西仏戦争・・・でスペインを破り、アルトワとルシヨンをフランス領に編入し(ピレネー条約)、翌1660年にはルイ14世とスペイン王女マリー・テレーズ(マリア・テレサ)との政略結婚を実現した。
《西仏戦争(Franco-Spanish War (1635~59年)は、スペイン(とオランダ)及び神聖ローマ帝国の両ハプスブルグ家の包囲網を打破しようとしたフランスは、30年戦争でプロテスタント側を支援したところ、プロテスタント勢力たるスウェーデンの敗北を契機に、スペインに宣戦し、30年戦争に1635年に参戦した。スペイン側は30年戦争が終わってからも、その年に始まったフロンドの乱の叛乱側に加担し、結局1859年まで西仏間の戦いは続いた。イギリスのフランス側での参戦は1657年であり、58年にはダンケルクを供与された。(1662年にフランスに売却。)
http://en.wikipedia.org/wiki/Franco-Spanish_War_(1635%E2%80%9359) 》
国内では、戦争継続のために重税を課したことによって、フロンドの乱(1648年~1653年)を招いたが、反乱側の内部分裂を利用してこれを鎮圧。結果として大貴族勢力を弱体化させ、王権を強化した。財政面ではコルベールを登用して重商主義を推進した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%B6%E3%83%A9%E3%83%B3
「当時は売官制によって、民衆のうち富裕層が法服貴族として増加していた。法服貴族はパリ高等法院にも基盤を持ち、結果、民衆と貴族勢力が結合し宮廷と対立<し、フロンドの乱が勃発>する背景となった。」中央政府側の指揮を執ったのはマザラン、貴族・民衆側の指揮を執ったのはコンデ公[(1621~86年)]だった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%89%E3%81%AE%E4%B9%B1
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A42%E4%B8%96_(%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%87%E5%85%AC) ([]内)
(注7)クレメンス・フォン・メッテルニヒ(1773~1859年)。「ドイツのトリーア選帝侯領の都市コブレンツ(現在はラインラント=プファルツ州に属する)で、メッテルニヒ伯爵の家に生まれた。」ストラスブール大、マインツ大で学ぶ。「<オーストリアの>マリア・テレジアの前宰相ヴェンツェル・アントン・カウニッツ公爵の孫娘エレオノーレ・カウニッツと結婚、侯爵に封じられて<同国における>高級官職への道がひらかれた。・・・<同国>の政治家として活躍し、外相としてウィーン会議を主宰したほか、のち・・・宰相に就任し、ナポレオン戦争後の国際秩序であるウィーン体制を支えた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%83%83%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%8B%E3%83%92
おぼろげながら気付いているのかもしれないが、我々は、イギリス内戦やカナダでのフレンチ・インディアン戦争のような出来事は、ドイツでの出来事よりも地方的諸問題により関わると考えがちであるところ、シムズの「赤い糸束」は容赦な<くそのような見方を退ける>。
彼は、諸大国間の大きな軍事的、経済的、或いは政治的闘争のほぼ全てを、ドイツと中欧の運命と結び付ける(connect)。
こうして、イギリス内戦は、<シムズによって、>国王と議会の諸権利と関わるのと同じくらいドイツとも関わる<ものとして説明される>のだ。
イギリスの議会勢力は、スチュアート朝の面々が、ブルボンないしはハプスブルグのカトリック君主国と同盟関係に入ることで究極的には英国のプロテスタンティズムの保証人達たるドイツのプロテスタント諸公を捨て去るようなことがないようにするために戦ったのだ。・・・
→イギリスにはもともとカトリック教会に対する違和感があったところ、ヘンリー8世による英国教の樹立を契機にカトリック教会及びカトリック諸国と敵対関係に入り、それが、イギリスにおいて清教徒の力が強くなった16世紀前半においても維持された、というだけのことだ、と私は考えています。(太田)
18世紀には、ウィリアム・ピット(William Pitt)<(注8)>は、フレンチ・インディアン戦争を「ドイツにおいてアメリカを勝つ」ものと性格付けた。
→この点については、何度も申し上げていたように、当時の英国は、ハノーヴァー王国と同君連合下にあり、かかる意味で欧州大陸の大国でもあったのであり、ハノーヴァー王国としてもフランスと戦ったというだけのことだ、と私は考えています。(太田)
(注8)フレンチ・インディアン戦争の時期(1755~63年)から、小ピット(1759~1806年)(コラム#594、2138、3561、4293)ではなく、その父親の大ピット(1708~78年)(コラム#459、3561)のことだと思われる。
<当時、>大変な巨額の英国の補助金群が、フランスとオーストリアを弱体化するためにプロイセン軍に注がれたのだ。」(F)
「欧州システムの中で、500年を超える期間、中心的役割は常にドイツによって演じられてきた。
(或いは、少なくとも、広義にとらえられたドイツの諸地・・というのも、大部分の期間、それは神聖ローマ帝国だったのであり、これはオランダ、ボヘミア、オーストリア、その他に広がるところの、国家と言うよりは法的存在(legal entity)だった。)
ドイツは、A.J.P.テイラー(Taylor)<(コラム#6112)>が「力の均衡の恒久的カドリール(quadrille)<(注9)>」と呼んだところの、枢軸的場所を有していた。
(注9)一番有名なカドリール(ヨハン・シュトラウス2世作曲のオペレッタ「こうもり」より)。
http://www.youtube.com/watch?v=syiClqV1HBQ
それは、兵士を大量に供給したし、「神聖ローマ皇帝」という憧れの称号は、欧州の他の部分の野心的な統治者達にとっての恒久的標的となった。
当然のことながら、この物語が展開する過程で、多くの変化が生じている。
18世紀には、東からのドイツに対する脅威は、オスマン帝国の衰亡とロシアの勃興によって、決定的に変化した。
ドイツ諸地それ自体も殆んど見分けがつかなくなるほど変わった。
口論しあう政治的諸単位の放浪性の合成物の中から、19世紀に、強力なオーストリア・ハンガリーと、それより更に強力な統一ドイツが出現した。
米国もまた、この「大国」システムに入った。
素晴らしい一片の分析の中で、シムズは、1860年代と1870年代におけるドイツの統合と、同じ時期における(北部の南北戦争における勝利をもってした)米国の最終的統合とが、どのように世界政治を再形成したところの、左右対称的な二重トラックの発展を形成したかを示す。
その半世紀後、第一次世界大戦の中で、二つの統合された大国の一方が欧州大陸を支配する寸前まで行ったが、それは、もう一方の大国の介入によってのみ、その失敗が保証されることとなった。
→米国に言及するのであれば、同じく「1860年代と1870年代における」日本の明治維新と日本の「欧州システム」ならぬ「世界システム」への参入にも言及すべきであったと思います。(太田)
しかし、一つの国家ないし領域が欧州史において「中心的」役割を演じる形は一つだけではない。
近現代においては、ドイツはこれを積極的に、強い立場から行ってきた。
しかし、<それ以前の>初期においては、ドイツは分裂していて弱体であったので、ドイツは他の諸大国の野心の焦点だった。
中心的役割を演じるということは何かを起こさせることを意味するのだとすれば、少なくともルイ14世からナポレオンに至るまでは、フランスの中心性の方が<ドイツの中心性よりも>もっともらしいと言えるかもしれない。
そして、<その前の>16世紀と17世紀においては、スペインが大国の地位から転落するまでは、フランスもまた、地理的中心性による板ばさみ、という問題に悩まされた。」(E)
→最後の二段落がシムズの本の要約なのか書評子の見解なのか、定かではありませんが、これだけでも、500年間を超えるドイツの欧州史における中心性というシムズの主張が成り立たないことは明らかではないでしょうか。
この500年間超を振り返れば、欧州史の中心は、スペインからフランスへ、そしてフランスからドイツへ、と東漸して行った、と見るのが自然でしょう。(太田)
(続く)
ドイツ中心近代史観(その4)
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