太田述正コラム#6182(2013.5.2)
<ドイツ中心近代史観(その5)>(2013.8.17公開)
「<神聖ローマ帝国は弱体であったため、>1453年にコンスタンティノープルが陥落した後のトルコ人達の前進に対するハンガリー人達の助けを求める声に答えることはなかった。
改革志向の諸皇帝、官僚達、知識人達による全ての試みにもかかわらず、ドイツはばらばらの政治的空間であり続けた。
16世紀初期に宗教改革が始まると、西方のキリスト教圏は、ローマカトリックとルター派・改革諸教会へと分裂し、神聖ローマ帝国はそのど真ん中において引き裂かれた。・・・
イギリスは、ドイツをその低地諸国・・そこをコントロールすればフランスやスペインが最短ルートで<大ブリテン島>南岸に降り立つことが可能になる・・における立場(position)の控え壁(buttress)とみなした。・・・
→何度も申し上げていることですが、より端的には、同君連合の国であったオランダないしハノーヴァーを守るために英国は欧州大陸中部に介入せざるをえなかった、と見るべきでしょう。(太田)
神聖ローマ帝国は、欧州におけるイデオロギー的正統性の洗礼盤(font)だった。
帝国の玉座は、他の全ての君主に先行するもの(take precedent over)であり、少なくとも理論上は、共通の大義(cause)を掲げて、ドイツの諸資源、いや、欧州大陸の全ての資源でさえも糾合する権利を与えられていた。
<そのため、>例えば、1519年には、ドイツの皇帝選挙は、3人の強力な君主によって競われた。
フランスのフランシス1世、イギリスのヘンリー8世、そして勝者となったところの、ブルゴーニュのシャルル<(注10)>だ。・・・
(注10)言わずと知れた、神聖ローマ皇帝のカール5世(1500~58年。皇帝:1519~56年。スペイン国王(カルロス1世):1516~56年)だ。「フランドルのガン(ヘント、現在はベルギーの都市)で生まれ、・・・1506年、・・・<ブルゴーニュ公の>父<、フィリップ美公>が急死すると、幼くして・・・ブルゴーニュ公となった。1516年に外祖父フェルナンド2世が死去すると、・・・<スペイン>王になった。・・・<そして、>1519年に<祖父の神聖ローマ皇帝>マクシミリアン1世が死去すると、オーストリアをはじめとするハプスブルク家の領土を継承し・・・皇帝に選出<され>た。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB5%E4%B8%96_(%E7%A5%9E%E8%81%96%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E7%9A%87%E5%B8%9D)
なお、英語ウィキペディアでは、ザクセンの選帝侯フリードリッヒ3世(Frederick III of Saxony)を筆頭の競争相手としてあげている。彼は、1517年に宗教改革の口火を切ったルターを庇護するためにカールの皇帝選出を推進する側に回った。(ルターはフリードリッヒが創立したヴィッテンベルク大学で神学教授として教鞭を執り、また博士号を取得している。)
https://en.wikipedia.org/wiki/Frederick_III,_Elector_of_Saxony
ウェストファリア条約では、スウェーデンとフランスの2国が、神聖ローマ帝国と、従って、中欧の領地的秩序の、「保証者」としての公的承認を勝ち取った。
18世紀末には、帝政ロシアもまた、この特権を許与された。・・・
ドイツのための闘争は、欧州一帯において国内政治を駆動した。
イギリス、アイルランド、及びスコットランドでは、ドイツでのプロテスタントの大義を支援することにスチュアート朝が失敗したことが、この王朝を非正統化し、それがやがてイギリス内戦へと導き、イギリスのチャールズ1世はその首を失うというコストを支払わされた。
→そんなバカな!(後出)(太田)
10万人もの英国人が、国内における激しい兄弟殺し的紛争の時にあってさえ、30年戦争で戦った。・・・
18世紀を通じて、ロバート・ウォルポール(Robert Walpole)<(注11)(コラム#1695、1696)>、大ピット(Pitt the Elder)<(注12)>の内閣を含む、諸内閣を倒壊させた問題(issue)として、神聖ローマ帝国の状態(satate)を超えるものはなかった。
(注11)1676~1745年。(事実上の)初代首相:1721~42年。ケンブリッジ大卒。「1740年にはヨーロッパ大陸でオーストリア継承戦争も発生、戦争に伴い地租引き上げも行われ、地主層の支持も期待出来なくな<り、>、1741年における総選挙で・・・与野党の差が18議席にまで縮まった<ため、>・・・ジョージ2世の慰留にもかかわらず、翌1742年に<事実上の首相職>を辞任した。・・・<これを契機に>、議院内閣制(責任内閣制)の基礎がつくられた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB
(注12)1708~78年。首相:1766~68年。オックスフォード大卒。「神聖ローマ帝国」に関わる問題は彼の首相在任中には起こっていない!
http://en.wikipedia.org/wiki/William_Pitt,_1st_Earl_of_Chatham
実際、英国人が「帝国」に言及する時、1760年前後より前なら、それはドイツを意味しており、自分達の海外の諸植民地を意味してはいなかった。
フランスでは、ブルボン家の頭領達が神聖ローマ帝国と東欧におけるフランスの国益を守ることに失敗したことが、この国における君主制を破壊したところの革命の到来を早めた。
30年戦争の間、ドイツは、内部紛争によって怪我を負い、その領域を縦横に進軍したところの、最も著名なものだけをあげても、スペイン、デンマーク、スウェーデン、フランスといった外国の諸軍によって屈辱を与えられた。
神聖ローマ帝国の人口は、2,100万人からわずか、1,300万人少しにまで減少したが、これはあらゆる戦争中、最大の損失<率>だ。
その中欧的位置(location)は、集団的死刑宣告に近いものとなっていた。
その後、哲学者のゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz)<(コラム#2753)>は、1670年に、ドイツは、依然、「[諸大国が]ぽいと投げ合う球…欧州の統御(mastery)のための闘争がその上で行われる戦場」である、と嘆いた。
フランス革命とナポレオンの諸戦争の間、ドイツ人は再び主たる犠牲者となり、その上で戦いが行われ、双方の側から分割され、徴兵された。
大部分のドイツ人は、この運命に憤り、多くはそれを克服しようとした。
彼らは、帝国の諸領域が、とりわけフランスへと出血して<(=失われて)>いることを狼狽しながら見ていた。
アルザス・ロレーヌは最も明白な例だが、決してそれだけではなかった。
数百年にわたって、<ドイツの>改革者達は、神聖ローマ帝国において、ドイツ人達が外部の後見なしで共存できるようになるために闘争した。
16世紀のオーストリア帝国の大将のラザルス・フォン・シュヴェンディ(Lazarus von Schwendi)<(注13)>から、17世紀のサミュエル・フォン・プーフェンドルフ(Samuel von Pufendorf)<(注14)>、そしてまた、18世紀のヨハン・ヤコブ・モーゼル(Johann Jakob Moser)<(注15)>、更には19世紀初及び央の自由主義的ナショナリスト達に至るまで、この試みはことごとく失敗した。
(注13)1522~83年。皇帝カール5世、マキシミリアン2世、フェルディナンド1世に仕え、マキシミリアン2世の下で神聖ローマ帝国軍の最高指揮官にして大将を務める。外交官としても活躍した。
http://de.wikipedia.org/wiki/Lazarus_von_Schwendi
https://fr.wikipedia.org/wiki/Lazare_de_Schwendi
http://en.wikipedia.org/wiki/Lazarus_von_Schwendi
(注14)1632~94年。ドイツの法学者、政治哲学者、経済学者、政治家、歴史家。「ウェストファリア条約で各<領邦>の諸侯権が確立すると、普遍的な「書かれた理性」たるローマ法はその権威を失墜し、新たな「理性法」が要求された。この要求に対し、プーフェンドルフは世俗的自然法論を展開し・・・皇帝権・教皇権衰退の下で、諸侯に有利な国家論を基礎付けるに至った。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B6%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%BC%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95
http://en.wikipedia.org/wiki/Samuel_von_Pufendorf
(注15)1701~85年。ドイツの憲法学者。大学教授、神聖ローマ帝国官僚(国家顧問)。
http://en.wikipedia.org/wiki/Johann_Jakob_Moser
プロイセンの宰相のオットー・フォン・ビスマルクがドイツのナショナリズムを彼自身の諸目的(ends)のために充当するとともに、オーストリアを除外することで、ようやくドイツは、最終的に侵略者達を抑止することができる、或いはそう願うことができる、内部的統合を初めて見出したのだ。
ところが、構造的な理由と行動上の理由によって、この新しい中欧の国家は、やがて欧州大陸だけではなく全球的秩序の蝶番をはずしてしまい、二度にわたって、諸大国の連合(coalition)によって粉砕されたのだ。
→諸大国の連合と言うより、愚かな英国(及び米国)によって粉砕された、と言うべきでしょう。(太田)
1871年の統合ドイツは、ヘンリー・キッシンジャーが喝破したように、「欧州にとっては大き過ぎ、世界にとっては小さ過ぎたのだ」。・・・
(続く)
ドイツ中心近代史観(その5)
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