太田述正コラム#6184(2013.5.3)
<ドイツ中心近代史観(その6)>(2013.8.18公開)
・・・ドイツの人口は急速に増えつつあった。
この人口的動力に馬具でつながれていたのが、急速に工業化しつつあった経済、世界で最高の教育制度、そして世界一の陸軍だった。
しかし、この<新制>ドイツ帝国は、両側を脅かされていた。
東側は、長期間受動的であった後、再び動き出しつつあったロシアによって、西側は、1870~71年の自国の敗北と折り合いが全くつけられないままでいたところの、フランスによって。・・・
更に悪いことには、英国の移民諸植民地と、とりわけ米国における、より良い生活を求めて何百万人もが移民しつつあった。
これにより、ドイツ帝国は、そのエネルギーを奪われるだけでなく、その潜在的競争相手達の人口的貯水池の水を補充しつつあった。
これらの挑戦に対処する方法は様々あり、ドイツはその全てを試みたが、永続的成功を収めたものは一つもなかった。
ビスマルクは、この<ロシアとフランスによる>戦略的包囲を巧みな外交によって清算しようとした。
すなわち、ドイツ帝国が、いつも、「3国の世界で2国のうちの1国となる」、または、「5国の世界で3国のうちの1国となる」ことを達成することで、フランスを孤立させようとした。
この戦術はしばらくの間は旨く行ったけれど、ドイツの主要な同盟国であったところの、ロシアとオーストリア・ハンガリーに対して相矛盾する約束を行うことの心労には、たとえヴィルヘルム2世によって余りにも決定的にウィーンに傾くことでパリとサンクト・ペテルブルグをドイツにとって損になる形で結束させることが起きなかったとしても、長期的には耐えることはできなかった。
宰相としてビスマルクの後を襲ったレオ・フォン・カプリヴィ(Leo von Caprivi)<(注16)>は、製造業を通じてドイツの世界の中での位置を確保しようとした。
(注16)1831~99年。ドイツの軍人、政治家。ドイツ帝国宰相:1890~94年。「ベルリン・・・生まれ<だが、>生家はイタリア系、スロベニア系・・・内政ではドイツ社会民主党との融和策を取り、外交政策では親英路線を取った。・・・自由貿易政策を推進しようとしたが、これは国内の保守層や植民地獲得を主張する人々を中心とする保護貿易論者の反対に遭った。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%B4%E3%82%A3
「人を輸出する代わりに商品を輸出しよう(Export goods or people)」というのが<彼の>スローガンだった。
しかし、この戦略は、諸外国の関税障壁の前では脆弱だった。
そもそも、ドイツ自身が、自国の強力な諸農業圧力団体に敬意を払って<、諸外国に>あらゆる種類の制限を課していたのだから・・。
第三の選択肢は、ドイツの強力な競争相手達の領域的拡大を打ち消すような自身の領域的拡大だったが、これが一番見事に失敗した。
それは、英仏とロシア帝国からなる三国協商、第二次世界大戦中の<米ソ英からなる>大同盟(Grand Alliance)、そして米国の敵意、という<、ドイツと>均衡をとるための諸同盟を、<これら諸国を>刺激したことによって、もたらしてしまったのだ。
米国は、ベルリンに対し、ドイツのラテンアメリカ、とりわけメキシコへの浸透という半球的懸念から、敵対したのだ。
ヴィルヘルム皇帝による、世紀の変わり目における、海外でのしばしば不器用であったところの世界政策、ドイツ帝国の第一次世界大戦におけるその西欧及び東欧での大規模な領域的諸大志、そして、1930年代と40年代におけるヒットラーの人種的に駆動された「生存空間」の希求は、全て大災厄でもって幕を閉じた。
この期間、ドイツ問題は、欧州諸国の国内政治の核心においても蟠り続けた。
→以下から、シムズが逆立ちしてもドイツとのからみで英国の国内政治に言及できなかったことは明白です。
ハノーヴァー王国と切り離された以降の英国は、名実ともに「欧州諸国」ではなくなっていた、ということです。(太田)
フランスでは、ドイツに対抗するためにどのように社会を組織すべきかという問題が、19世紀末のブーランジスム(boulangisme)<(注17)>の脅威から始まり、ドレフュス事件<(1897~1909年)(コラム#310、967、1360、2864、2870)>を経て、1930年代の苦い分裂状態<(注18)>に至る、あらゆる国内的危機の背後に潜んでいた。
(注16)「1889年1月27日に最高潮に達したフランスの政治運動。反議会主義的な政治運動で、ナショナリストは対独復讐を、急進派や労働者は社会政策を、王党派は王政復古を、ボナパルト派はジョルジュ・ブーランジェ将軍のカリスマ性に帝政復活をかけた。・・・議会外の民衆運動に依拠して、反議会主義、人民投票型民主主義を標榜し、左右の諸潮流を糾合した点でボナパルティズムに似通っているが、その支持基盤が大都市と北部工業地帯にほぼ限定され・・・たところは異なっていた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%82%B9%E3%83%A0
ブーランジェ(1837~91年)は、仏陸士卒で、国防相を務め、「1889年1月27日の補欠選挙で彼が圧勝するや5万人の群集が集結し、ブーランジストたちは彼がクーデターで政権を奪取するよう促した。ところが彼は決行をためらい機会を逸した。・・・ブリュッセルで彼の愛人だったマルグリット・ド・ボヌマンス夫人の死・・・を嘆いて、彼女の墓前でピストル自殺した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%82%A7
(注17)「1936年5月の選挙で人民戦線が圧勝し、社会党のレオン・ブルムを首相として、第1次ブルム人民戦線内閣(社会党、急進社会党、共産党(閣外協力))が成立した。しかし、同年に勃発したスペイン内戦への対応をめぐり内部で対立が先鋭化した。8月に不干渉の方針を示すが、これに対して共産党は不満を強めた。この後も人民戦線内部では対立が絶えず、1938年には人民戦線が崩壊した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E7%AC%AC%E4%B8%89%E5%85%B1%E5%92%8C%E6%94%BF
→民主主義独裁の元祖(ナポレオン→ナポレオン3世→ブーランジェ)のフランスにおいて、ドイツに対抗するために戦間期の「1935年<に>仏ソ相互援助条約<を>成立」(ウィキペディア上掲)させたこと、及び、1936~38年に容共の人民戦線内閣を成立させたこと、を銘記しましょう。
これと近似するところの、対独及び容共、という図式で、先の大戦において、(ドイツに早々に敗れたフランス抜きで)米ソ英の大同盟が成立し、戦後における共産主義勢力の全球的拡散がもたらされるわけです。(太田)
ロシアでは、汎スラヴ運動が、19世紀の最後の25年間、ドイツの「支配的地位(dominance)」に狙いを定め続けた。
第一次世界大戦が勃発した時、ロシアの政治において、ベルリンを封じ込める決意が極めて強かったため、軍事的失敗と、ロマノフ王朝がホンネではドイツ寄りであるとの一般感情が、1917年における最初のロシア革命をもたらした。
<そして、>第二の(ボルシェヴィキ)革命の後、どうやってドイツでの共産主義一揆を促進するか、そしてその実現に失敗した場合にどうするか、という問題が、新政府の中心的関心事(preoccupation)だった。
本件は、スターリンの「一国社会主義」アプローチがトロツキーの「世界革命」に勝利した時にようやく解決されたのだった。」(G)
→前にも述べたように、第一次世界大戦に英国が参戦していなければ、(「世界」大戦という名称は付されなかったでしょうが、)対フランス戦も対ロシア戦も、この順序で短期間でドイツ側の勝利で終わっていた可能性が大であり、第二の革命はもとより、第一の革命も起こらなかったことでしょう。(太田)
(続く)
ドイツ中心近代史観(その6)
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