太田述正コラム#6186(2013.5.4)
<ドイツ中心近代史観(その7)>(2013.8.19公開)
・・・第一に、ドイツでの権力を巡っての闘争は、1519年から56年まで、おおむね近代のドイツに相当するところの、神聖ローマ帝国を統治した、少なくともカール5世の時代以降の欧州史を理解するための鍵だ。
第二に、不安定な国際的文脈、及び、大志を抱きつつも安全保障に心許なさを覚えていた欧州の諸国家が追求した外交政策がこれら諸国の国内的革命に決定的影響を及ぼした。・・・
→前述したように、私は、前者には不同意、後者には同意です。(太田)
・・・頻繁な戦争とフランスないしスペインへの従属の危険性が、17世紀のイギリスと連合州(United Provinces)(今日のオランダ)において、政治的多元主義と明確な近代国家財政的諸慣行へと背中を押した。
しかし、プロイセンとスウェーデンでは、戦争の圧力は全く異なった結果をもたらし、シムズが呼ぶところの、「財政的・軍事的国家」の創造へと駆動させた。
→イギリスとオランダの「政治的多元主義と明確な近代国家財政的諸慣行」は、(改めて詳述する必要がありますが、)戦争に対応するために形成された部分よりも、自生的に形成された部分の方が大きい、というのが私の考えです。
なお、(本格的なオランダ論は他日を期すとして、)私のとりあえずの仮説は、オランダは、ほぼアングロサクソンの故地であるがゆえに、オランダは、そもそもイギリスとの間で(コモンローを除いて)文明の大部分を共有していた上、地理的にも近く、イギリスとの間で相互に強い影響を及ぼし合った、というものです。
オランダ以外の欧州大陸諸国(ロシアは含まず)に関しては、(プロイセンとスウェーデン以外の大国についても、)シムズの言う通りである、と思います。
オランダ論に係る部分以上の典拠は、下掲の昔に読んだ4冊の本です。
Michael Mann, States, War and Capitalism(1988)
Frank Talett, War and Society in Early Modern Europe, 1495~1715(1992)
Brian M. Downing, The Military Revolution and Political Change–Origins of Democracy and Autocracynin Early Modern Europe(1992)
Bruce D. Porter, The Military Foundations of Modern Politics(1994)(太田)
プロイセンにおける国家と社会の軍事化は、同国の下で1864年から1870年にかけての3つの戦争の後にドイツを統一せしめたが、20世紀の前半において、欧州、ひいては世界に悪い結果をもたらした。・・・
ナチ党が、1930年9月に重要な選挙での躍進を達成した<(注19)>のは、積もりに積もったワイマール・ドイツの経済諸危機のためというより、外交諸問題に係るわめきたて、すなわち、再軍備、及び、深く憤っていたところの、1914~18年の諸敵国に対する賠償金支払い問題であったことを、シムズは我々に正しくも思い起こさせる。
(注19)「議会に基づかないパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領の「大統領内閣」の首班であるハインリヒ・ブリューニング首相が1932年7月16日に出した財政改革案はドイツ社会民主党・ドイツ共産党・ナチ党・ドイツ国家人民党など広範な国会の政党の反対で国会において否決された。ブリューニングはヒンデンブルク大統領に大統領緊急令を出させて国会を無視して同法を強制的に公布。これに対して社民党は7月18日に緊急令廃止動議を提出して可決させた。これを受けてブリューニングは同日のうちに大統領国会解散命令によって国会を解散した。9月14日に選挙がおこなわれ、選挙の結果、ナチ党が12議席から107議席に大躍進し、社民党に次ぐ第二党となった。<なお、共産党は第三党。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E5%9B%BD%E4%BC%9A1930%E5%B9%B4%E9%81%B8%E6%8C%99
同様、1980年代における共産主義の崩壊は、欧州の諸国境を画定させただけでなく、ヴァーツラフ・ハヴェル(Vaclav Havel)<(注20)>やレック・ワレサ(Lech Walesa)<(注21)>のような、ソ連圏の中野民主主義的反対論者達を鼓吹もしたところの、1975年の東西間のヘルシンキ宣言(Helsinki Final Act)<(注22)>の人権諸条項に相当程度負っていた。」(A)
(注20)1936~2011年。チェコスロヴァキア大統領:1989~92年。チェコ共和国大統領:1993~2003年。高等専門学校卒。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%83%84%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%AB
(注21)レフ・ヴァウェンサ(1943年~)。ポーランド大統領:1990~95年。高卒。「1980年の独立自主管理労働組合「連帯」創設メンバー。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%82%B5
(注22)「ヘルシンキ宣言(Helsinki Declaration)またはヘルシンキ合意(Helsinki Accords)は、1975年7~8月、フィンランドのヘルシンキにおいて開催された「全欧安全保障協力会議(Conference on Security and Cooperation in Europe:CSCE)」で採択された最終の合意文書のこと。この全欧安全保障協力会議にはアルバニアを除きソ連を含めたヨーロッパ33ヵ国、アメリカ、カナダの計35ヵ国の首脳が参加した(そして全参加国が同文書に調印)。「ヘルシンキ宣言」は、国家主権の尊重、武力不行使、国境の不可侵、領土保全、紛争の平和的解決、内政不干渉、人権と諸自由の尊重などの原則、信頼醸成措置の促進などの安全保障や技術協力などの推進を掲げ<た。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%AD%E5%AE%A3%E8%A8%80_(%E5%85%A8%E6%AC%A7%E5%AE%89%E5%85%A8%E4%BF%9D%E9%9A%9C%E5%8D%94%E5%8A%9B%E4%BC%9A%E8%AD%B0)
(続く)
ドイツ中心近代史観(その7)
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