太田述正コラム#6194(2013.5.8)
<中共の資本主義化の軌跡(その2)>(2013.8.23公開)
2 中共の資本主義化の軌跡
 せっかく、第6章(の邦訳)が公表されているので、その部分を軸にこの本の内容を紹介していきたいと思います。
 「・・・外界から長いあいだ孤立していたので、社会主義の代案にほとんど心当たりがない。このため指導部は、即席とありもの<(ママ)>の利用でひねり出したことに取り組むしかなかった。・・・
 中国は社会主義を近代化しようと努めながら資本主義になった。中国の物語は、アダム・ファーガスンが「人間の行為の結果ではあるが、人間の設計の結果ではない」と述べたものの典型だ。中国のことわざがもっと詩的に表現している。「有意花を栽えて花発かず、無心柳を挿して柳陰を成す」(花を咲かそうと思って植えた花が開かず、誰も気にかけなかった柳が成長して木陰をつくる)。・・・
→おいおい明らかにして行きますが、完全に不同意です。(太田)
 工業開発担当副総理だった王震は1978年11月6日~17日にイギリスを訪問、この国の労働者階級が果たした高次の経済的・社会的発展を知って驚嘆した。訪英前のこの国の資本主義に関する知識は多分にマルクスの著述に依っていた。ロンドンの貧民街を、貧困と窮乏と搾取を目にすると予期していた。
 だが驚いたことに、王の給料はロンドンのごみ収集員の賃金の6分の1にすぎなかった。・・・
 <ここから、>イギリスに共産党支配を足したものが共産主義に等しいという王震の公式<が打ち出された。>・・・
 挫折感は、アジア近隣諸国や他地域の国々が急速に経済成長していると指導部が知ってから、いっそう深まった。・・・
→1972年には既に中共は日本との間で国交正常化をしており、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E4%BA%A4%E5%9B%9E%E5%BE%A9
それ以前からも政治家同士の交流が積極的に行われていたことだけをとっても、1978年以降に「アジア近隣諸国や他地域の国々が急速に経済成長していると・・・知った」などと何を寝ぼけたことを言っているのだ、という感があります。
 また、中英関係についても、英国統治下の香港と接壌していたことや早くも1950年に英国が中共を承認していたことは置くとしても、1954年には政治家同士の交流が始まり、1972年には大使の交換に至っていたところです。
http://en.wikipedia.org/wiki/China%E2%80%93United_Kingdom_relations
1978年になってようやく副総理が「驚嘆」するはずがありません。(太田)
 国家主導の改革が始まったのは1976年の末、華国鋒が経済を刺激する計画「4つの近代化」を復活させたときだった。もともとは64年に周恩来首相が提案したものだが、毛沢東の「社会主義教育」運動の発動と2年後の文化大革命ですぐ棚上げにされていた。
 華国鋒政権の中国は速やかに自滅的な階級闘争を終わらせ、社会主義的近代化に着手する。1年後、のちに批判者から「洋躍進」と呼ばれる野心的な対外開放の経済計画が始まった。20数件の開発プロジェクトの資金調達に外資を利用するものだったが、ほとんどは重工業と関連インフラだった。
 しかし「洋躍進」は長続きせず79年末に幕を閉じる。計画自体の欠陥のせいでもあり、78年12月の11期三中全会後、<トウ>小平と陳雲が政治の中枢に返り咲いた政権交代のせいでもあった。
 陳雲が中国経済の舵取りに戻ると、党中央委員会は1979年4月に当時「八字方針」と呼ばれた「調整、改革、整頓、向上」を打ち出して、ポスト毛政権による国家主導改革の第2ラウンド到来を告げる。この新経済政策で「洋躍進」は打ち切りとなった。
 新方針には「改革」も含まれていたが、基本的に経済の緊縮策であり、重点ははっきり「調整」に置かれていた。中国経済で調整が求められたものは何か。答えは簡単、「洋躍進」である。陳雲から見れば中国のマクロ経済的な問題をさらに悪化させたものだ。とくに重工業と軽工業、工業と農業の構造上のアンバランスを生んでいた。
 新しい経済政策の最優先項目は農業だった。政府から見て「洋躍進」の最大の欠点は、農業を犠牲にして重工業に重点を置きつづけたことだ。そのため農業は、1978年コミュニケで認められたとおり苦境に陥っていた。・・・
 たしかに当時とられた農産物の買取価格の引き上げ、農民の食糧消費を増やすためのノルマ引き下げと食糧輸入増、副業の奨励、人民公社や生産大隊事業の発展といった農業政策は、このあと数年は農業生産を着実かつ大幅に増やし、農村部と都市部の不公平を軽減した。
 だが、これらは中国の農業改革として今日知られていること、つまり家庭請負責任制による私営農業をもたらした原動力ではなかった。私営農業は、飢えに苦しんでいた農民と地方幹部による草の根の改革だった。条件付きで承認された1980年には私営農業はひそかに多くの省に広まっていたが、ようやく国策となったのは82年のことだ。
 工業に関しては、調整政策の第一の目標は、重工業開発の速度をゆるめて軽工業への投資ペースを高めること、設備投資を削減して住宅や労働コストといった非生産関連の支出を増やすことだった。この経済的理由から、経済を消費支出へ向かわせ、とくに重工業の設備投資への依存度を減らそうとした。調整政策はすぐに農村でも都市でも、急速な生活水準の改善に変換されていった。
 これ以外にも経済政策の一環として、中国政府は1978年に経済の非集権化のために策定した「権限委譲、利益譲渡」の改革計画を実行した。都市部の地方政府と企業に加えて、農村部の生産部隊にも自主性(「権限」)とインセンティブ(「利益」)をもっと与えるものだ。
 この政府主導の政策は、主に農業のほか、国有企業、国際貿易、財政の3つの分野で実施された。国際貿易については、この政策で事実上、貿易部の独占状態がなくなって、地方政府や国有企業が貿易会社を設立できるようになった。財政面では、この政策により地方政府が金融部から独立し、地方財政をほぼ自主的に管理できるようになった。
 この改革策の最重要ターゲットはむろん国有企業だった。新規プラント建設に重点が置かれた「洋躍進」とは違って、新政策では既存の国有企業の改善をめざしていた。企業改革は1978年12月の11期三中全会が召集される前に、まず省党委書記の趙紫陽が率いる四川省で試みられたが、79年には国策になった。目的は、主として経営上の意思決定権の大部分を政府から企業へ移すことで、民営化はしないで国有企業にもっと自主権をもたせることだった。 ・・・
 地方政府は自らの管轄区である省、市、県、郷、鎮を会社のように運営する<ことになった>。 ・・・
 中国の地方政府のそれぞれが、32の省級政府、282の市政府、2862の県政府、19522の鎮と14677の郷の政府が、地方経済の開発のしかたを実地に試みるとき、無数の異なる実験が同時に、競い合うように行われる<ようになり、>・・・試行錯誤にもとづく集団学習の時間が大幅に削減され、成功した慣行がすぐさま簡単に広まる<こととなった>。・・・
→1979年の改革は、中国共産党組織を、経済面において、私の言う固い組織(コラム#3879、5088)から、エージェンシー関係の重層構造(コラム#40、42、113、676、3310、3322、3336、3338、3564、3813、3911、4079、4142、4144、4304、4311、4493、4507、4744、5111、5436、5600)からなる(いわゆる中間組織的な)柔らかい組織(コラム#3879)へと作り変えることを目的としたもの、と捉えることができます。
 まさに、日本型政治経済体制の経済体制部分の採用です。
 これは、国有企業の共産党委員会のみならず、省、地級市、県級市、郷(小さいもの)/鎮(大きいもの)、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD%E3%81%AE%E8%A1%8C%E6%94%BF%E5%8C%BA%E5%88%86
人民公社(後に廃止)、の各級共産党委員会へとそれぞれ権限が委任された、と考えられます。
 (但し、(共産党の最下層の単位(いわゆる細胞)は3人以上の党員で構成されるところ、)軍はもとより、機関、学校、科学研究所、社会団体、社会仲介組織等
http://www.21ccs.jp/china_watching/KeyNumber_NAKAMURA/Key_number_14.html
の共産党委員会ないし細胞は、かかる権限委任の対象ではなかったし、現在もない、と考えられる。)(太田)
(続く)