太田述正コラム#6196(2013.5.9)
<中共の資本主義化の軌跡(その3)>(2013.8.24公開)
 政府が指導する公式の改革のほかに、別の路線の改革が存在した。これはいくつかの自発的な草の根運動の組み合わせだった。政府から、はっきり禁じられていたもの(1982年以前の私営農業、80年以前の都市の自営業)もあれば、政府方針で差別待遇を受けていたもの(80年以後の都市の自営業、郷鎮企業)もあり、北京から慎重に監視されていたもの(経済特区)もある。
 この路線は、飢えた農民が政府方針に逆らって私営農業をひそかに試みたとき、不完全就業の農民がもっと収入を得られる非農業の仕事を始めたとき、都市部の失業者が自営業や私企業設立を強いられたとき、何千何万もの不法移民がもっと良い暮らしを望んで、危険で多くは死に至る香港への国境越えに踏み切ったとき、中国全土で静かに前進した。この第二の改革は、私たちが「辺境革命(マージナル・レボリューション)」と呼ぶものから成っている。・・・
 <私営農業(生産責任制)(注1)、郷鎮企業(注2)、経済特区(注3)、及び都市の自営業(注4)の>4つの「辺境革命」に共通していたのは、いずれも国の権限外で出現したことだ。4つの革命の主役は、社会主義体制の辺境にいる主体(アクター) だった。社会主義の誇りとして、国の手厚い保護と統制を受けている国有企業とは異なり、これら辺境の主体は、とくにその存在が社会主義の脅威でも害毒でもなければ、放置されていた。・・・
 (注1)「1978年11月、安徽省鳳陽県小崗村の農民18人<が>「生死状」を連判し、村内の土地を分配し生産請負を開始した。結果として小崗村では豊作となり生産請負は成功した。・・・1978年12月の中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議(第11期三中全会)<はこの制度を公認した。>
 生産責任制と人民公社の最大の違いは、農民は政府から生産を請負うがその時に、政府と農民は一定数量の農作物を国家に上納する(包产到户、包干到户)が、それ以外の余った農作物については農民が自由に処分してよいこととなり、自由市場に農作物を販売してよいことという取り決めをした。その結果、人民公社時代の・・・集団による管理体制の形態から、各農家単位による自分で生産・分配及び経営を管理する形態へと変化していった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E7%94%A3%E8%B2%AC%E4%BB%BB%E5%88%B6
 (注2)「郷鎮における中小企業のこと。人民公社時代には社隊企業と呼ばれ、現在の郷鎮企業と呼ばれるようになったのは、1984年。人民公社が解体されたためである。現在では意味が多少変化し、郷鎮と同郷鎮出身民間出資者との共同出資により起業された(中国版「第3セクター」に近い)企業を指す。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%B7%E9%8E%AE
 (注3)「外国の資本や技術の導入が認められている特別地域をさす。1978年から始まった改革開放政策の一環として設置され、さかんに外国企業が進出し、工業・商業・金融業などが発展した。1984年には、経済特区に続く対外開放政策として、上海等に代表される14の沿海都市が「経済技術開発区」に指定された。経済特区と・・・の違いは、<経済特区には>域内外への往来が、さながら国境並みに厳重に管理されており、一般の中国人が自由に往来できない点である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%8C%E6%B8%88%E7%89%B9%E5%8C%BA
 (注4)詳細は不明。恐らくこの本の中でも余り具体的な説明は行われていないのではないか。
→一、生産責任制は、「決死」の非合法行為から始まったと言うよりは、それが直ちに公認されたことが示しているように、既に中共中央において公認されることが内定していて、それが小崗村の人民公社の共産党委員会にも伝わっていたが故に、非合法行為が黙認された、ということでしょう。
 (そもそもこの制度は、1960年代の大躍進政策の失敗の後に中共中央の支持の下に推進されたことがあり、毛沢東の批判を受けて中止されたという経緯があります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E7%94%A3%E8%B2%AC%E4%BB%BB%E5%88%B6 前掲)
 爾後、各地の人民公社の共産党委員会の指導の下でこの制度の普及が図られた、と考えられるのです。
 二、また、郷鎮企業も、その出発点は人民公社内の社隊企業であり、これまた、公社の共産党委員会の指導の下で設置が推進されたはずです。
 なお、人民公社が解体された1984年に、社隊企業は郷鎮企業となる
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%B7%E9%8E%AE 前掲
わけですが、この時、各郷鎮企業に共産党委員会が設置されています。(F)
 三、経済特区類が中共当局のコントロール下にあることは、当然です。
 四、都市の自営業についての詳細は不明であり、ご存知の方はご教示いただきたいが、トウ小平は、日本におけるいわゆる二重構造の存在とその妙を知っていて、都市の自営業の出現と増加をあえて積極的に黙認したのではないか、というのが私の大胆な仮説です。
 なお、「江<沢民>は2002年11月、自身の任期で最後となる第16回党大会を主宰し、自ら提唱した「3つの代表」理論(中国共産党は先進的生産力・先進的文化・最も広範な人民の利益を代表する)を党の指導思想として党規約に追加した。「3つの代表」理論を掲げて私営企業主<(都市の自営業者)>へも門戸を開いた」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%B2%A2%E6%B0%91
ところです。
 結局、これらの制度は、全ては共産党中央の計画に基づき、その指導に従って推進された、と考えるのが自然でしょう。(太田)
 ・・・社会主義がしっかり維持される傍ら、周辺で資本主義にチャンスが与えられた。 ・・・
 呉敬レン教授<(注5)>は2つの異なる改革の存在、国有セクターと非国有セクターの改革の存在を指摘したが、両方とも政府が計画したかのように書いている。・・・
 (注5)「中国国務院発展研究センター研究員。1954年復旦大学経済学部卒業。中国社会科学院大学院教授、北京大学経済学研究科教授、中欧国際工商学院教授、中国人民政治協商会議全国委員会常務委員、経済委員会副主任。2005年中国経済学賞受賞。国際経済学連合(IEA)執行委員(2005-08年)。」
http://global.tokyofoundation.org/jp/symposium_past/gl08005/s02/show_speaker
 非国有セクターに改革の重点を置き、そこで市場志向の企業を創設して、経済の成長を牽引させた。この新しい戦略は『体制外先行』あるいは『増分改革』の戦略と呼ばれた」 ・・・
 経済改革の公式説明では、2つの異なる改革の出所を隠し、政府が先見の明ある設計者であり、市場転換の全体のプロセスをつぶさに根気よく監督していたかのように述べている。・・・
 <「改革」が始まって間もない>1981年、華国鋒から中国共産党主席の座を引き継ぎ、82年に党総書記となった胡耀邦は、84年にイタリア共産党の機関紙『ウニタ』のインタビューに応えるなかで、自身と党に対し疑問を提起した。「〔1917年〕十月革命から60年以上たった。多くの社会主義国が資本主義国の発展に追いつけていないのはどうしてなのか。〔社会主義の〕どこがいけなかったのか」<と述べている。>・・・
 <そして、>1984年10月10日、西ドイツのヘルムート・コール首相と会見した際、トウ小平は初めてこの改革が漸進的で国家中心であるとの解釈を明らかにした。 ・・・
 トウ小平の談話は隠蔽の傑作だ。北京が推し進めたものと草の根運動の結果だったもの、この2つの改革を、政府が指導者役を演じる一つの壮大な物語にまとめあげた。
 1978年コミュニケは「全党は農業をできるだけ速く発展させることに主な精力を集中しなければならない」と述べていたが、私営経済の解禁はしていない。コミュニケの内容はトウが談話で述べた「生産量に連動した請負責任制を実施」とか「農民が経営管理の自主権をもつ」とはほど遠い。それどころか、「人民公社、生産大隊、生産隊の所有権と自主権は、国家の法律で確実に保護されなければならない」し、「人民公社は、断固として生産隊を基礎とする三級所有制を実行し、これを変えてはならない」ことを強調した。
 こうした文言は、私営農業を全面否定していた。・・・
 当時の指導部<は>国有企業を統制していけば社会主義は保たれると信じていた<のだ。>・・・
 <しかし、例えば、>10年以上の企業改革の末に中国政府はついに、権限委譲と利潤譲渡では国有企業の独立と自主は実現できなかったと結論し<、>・・・国有企業の民営化<に着手した>。・・・
 中国は共産党と市場経済がともに繁栄できるように見える唯一の例として際立っている。 ・・・
 改革の過去数十年間に、国家が中国経済から徐々に手を引いていったことは否定しがたい事実である。たとえ国家が中国経済の台頭に貢献したように見えたとしても、中国の市場改革が成功したのは、政治指導力があまねく存在したからとか、強力だったからというより、政府が徐々に経済から離れていったからにほかならない。 ・・・
→著者達の指摘は誤りであり、トウ小平の言は額面通り受け止めるべきであり、呉敬レン教授の指摘は正しい、と考えます。
 最初に、事実関係の補足を行っておきましょう。
 1977年に3度目の(かつ最終的な)復権を果たしたトウは、「1978年10月、・・・中国首脳として初めて訪日し、・・・千葉県君津市の新日鉄君津製鉄所、東海道新幹線やトヨタ自動車などの先進技術、施設の視察に精力的に行<うとともに、>・・・新日鉄との提携で、上海に宝山製鉄所を建設することが決定」しています。
 また、1978年11月にはシンガポール等を訪問し、リー・クワンユーからイデオロギー輸出の中止と改革開放を勧められています。
http://www.foreignpolicy.com/articles/2013/05/07/china_1979_economic_miracle?page=full
(5月8日アクセス)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A6%E5%B0%8F%E5%B9%B3 ([]。フォーリン・ポリシー論考(上掲)は、日本訪問とシンガポール訪問の両者に言及しているが、この日本語ウィキペディアにはシンガポール訪問の記述がない!)
http://en.wikipedia.org/wiki/Deng_Xiaoping (この英語ウィキペディアには日本訪問の記述がない!)
 1980年に、私の「「日本型」経済体制論-政府介入と自由競争の新しいバランス-」(筑摩書房『産業社会と日本人』(1980年6月)(に収録)が上梓され、この論考が、ジャパン・プレスセンターで外国人記者・・恐らく中共の記者も出席・・に対して英訳付で披露されたことについても、ここで図々しく記しておきましょう。
 さて、トウ小平が全権を掌握するに至っていたとは言っても、中国共産党の幹部には毛沢東主義者や教条的マルクス主義者も多かったことから、トウは、彼らの反発を和らげるような「隠蔽」を行いつつ(=タテマエ論を掲げながら)、他方で、日本型経済体制化(日本的社会主義/資本主義化)という革命を既成事実化しなければなかったということではないでしょうか。
 彼が一番最初に実行したのが経済特区の設置であったことがそのことを象徴しています。
 これは、タテマエ上、経済的必要性から、やむをえず、特区内だけを資本主義化する、開放する、ということですからね。(フォーリンポリシー論考(前掲)で、その歴史的経緯の詳しい説明が、必ずしもかかる観点からではないが、なされている。)
 私自身は、経済特区は、トウが、香港返還を視程に入れていた・・1884年に返還決定、彼の死去の年の1997年に返還・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%99%E6%B8%AF%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
こともあり、繁栄する香港の拡大ないし香港の二番煎じを図ったもの、と単純に考えています。
 1984年10月に至っても、トウが、シュミットに対して、自分が行っているものは、国家が中心の・・これは国家(中共当局)が指導した、と言い換えれば間違ってはいない・・漸進的な「改革」・・後述に照らしこれはウソ・・であることを強調したのは「隠蔽」の名残といったところでしょうか。
 これに対し、翌1985年3月28日に、トウが、自民党の代表団と会った時に、今中共で起こっていることは、毛沢東が行った中共成立に至る第一革命に対するところの、「第二革命(second revolution)」である、と初めて言明し、以後、これが中共当局の公式用語として確立するに至った(B)ことは、極めて重要であると考えます。
 いくらなんでも、トウは、毛の共産主義革命に対するに自分の資本主義革命或いはファシズム革命、というニュアンスで「革命」という言葉を使ったのではないでしょう。
 私は、日本型経済体制を一種の社会主義と評価していた彼が、日本型経済体制化、というニュアンスでこの「革命」という言葉を使ったと思うのです。
 この言葉を最初に、わざわざ自民党代表団に対してあえて用いた、ということがこのことを示唆しているのではないか、ということです。
 (戦前の日本は、中国共産党の最大の敵であり、日本については当時から最大の努力を払って研究を積み重ねてきたはずであること、戦後、内戦を経て旧満州国をも引き継いだ中共当局は、そこが日本型政治経済体制の原点であることを承知していたはずであること、戦後の日本の経済高度成長が戦前・戦中の政治経済体制が基本的に継続された体制下で実現したこと、基本的に同じことが日本の植民地であった台湾と韓国でも多かれ少なかれ起こっていたこと、にも気付いてたはずであること、に注意を喚起しておきます。)
 なお、この時点で「革命」と彼が言い切ったのは、中共における、既成事実の積み重ねとその成果を踏まえ、毛沢東主義者や教条的マルクス主義者を沈黙させられる段階に達した、と彼が考えたからでしょう。
 (トウは、都市の自営業は最初から認めるつもりだったでしょうし、国有企業のしかるべき時期における民営化も最初から考えていたことでしょう。「模範」たる日本が、明治維新後の殖産興業の過程で早くも国有企業の民営化を推進したことも、彼の念頭にあったはずです。
 また、トウの死は1997年
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A6%E5%B0%8F%E5%B9%B3
で、都市の自営業者の共産党員登用は2002年ですが、これもトウの視野には入っていた、とさえ考えられるところです。)(太田)
(続く)