太田述正コラム#6198(2013.5.10)
<中共の資本主義化の軌跡(その4)>(2013.8.25公開)
この中国社会主義における公有制と中央計画の歴然たる差は、歴史に深く根ざしたものだ。公有制にもとづく理想社会という概念は、中国思想史に古くから存在した。孔子の時代にまで遡れる。伝統的な法思想・政治思想には、「私」に対する凝り固まった偏見がある。この公と私の対比は、19世紀末から20世紀初頭に康有為<(注6)>が強力に再定式化した。
(注6)Kang Youwei。1858~1927。「<清において、>李鴻章や曽国藩らの主導のもとで行われていた洋務運動を形式的だと非難して、徹底した内政改革による洋務運動、つまり変法による改革を主張するようになった。その後、時の皇帝・光緒帝に立憲君主制樹立を最終目標とする変法を行うよう上奏を幾度となく行い、1898年6月、ついに光緒帝から改革の主導権を与えられることとなった(戊戌の変法)。ところが康有為の改革は当時、清王朝の実権を掌握していた西太后ら保守派の反感を買うこととなり、改革は9月、わずか100日あまりで西太后のクーデターにあって失敗に終わった(戊戌の政変)。・・・<その後、>日本に亡命し・・・これ以後<も>日本に都合三度ほど滞在し、・・・明治の著名人と親交を結<び、>・・・また・・・日本人の女性を妻として迎えてもいる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%B7%E6%9C%89%E7%82%BA
康は、儒教用語の小康に対する大同の世界(ユートピア)を広めた。康の見方では、公有制が理想の大同世界の土台だった。この見方は毛や他の中国人共産主義者に消えない影響を与えた。・・・
→「公有制にもとづく理想社会という概念」とは、王土王民思想
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E5%9C%9F%E7%8E%8B%E6%B0%91%E6%80%9D%E6%83%B3
やそれと関わる均田制
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%87%E7%94%B0%E5%88%B6
がかつて支那に存在したことを指しているのでしょうが、それを伝統とまで呼べるのかどうかは疑問です。
少なくとも、「「私」に対する凝り固まった偏見がある」というのは初耳ですし、家族制度や資本主義を排斥する康有為(Kang Youwei。1858~1927年)の大同思想をかかる伝統ないし偏見の産物と見る王寧の考えには一層疑問符を付けざるをえません。
(私自身は、日本かぶれの康有為が、日本人の考え方に触発されて「公」重視を叫んだのだと想像しています。
参考:http://en.wikipedia.org/wiki/Kang_Youwei )
話はむしろその真逆であり、一方的かつ恣意的に人民を収奪して来たところの、公「に対する凝り固まった偏見がある」ところの、私偏重社会が支那社会なのではないでしょうか。
そのことが、改革開放後の中共の急速な(日本型経済体制的)資本主義化を可能にする一方で、現在中共がぶつかっている諸問題の根源にある、と言うべきでしょう。(太田)
中国史の学生には周知のことだが、遠隔地貿易、紙幣の流通<(注7)>、盛んな市場活動は、中国の過去のいつの時点でも存在した。これは唐王朝末期や宋王朝、明清の時代にとくにあてはまる。マルコ・ポーロは13世紀に中国を旅したとき、急成長する商業や洗練された工業に強い感銘を受けている。なかでも興味をそそられたのは紙幣が流通していたことだった。西洋では17世紀まで登場しなかったものだ。 ・・・
(注7)「北宋になると商人によって交子・会子と呼ばれる手形が使われるようになった。・・・交子は仁宗[(皇帝在位:1022~1063年)]の頃から、会子は南宋になってから政府によって発行されるようになった。これが世界で最初の紙幣である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E8%B2%A8%E5%B9%A3%E5%88%B6%E5%BA%A6%E5%8F%B2#.E7.B4.99.E5.B9.A3.E3.81.AE.E6.88.90.E7.AB.8B
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E5%AE%97_(%E5%AE%8B) ([]内)
→紙幣はともかく、商業や工業は世界のどの文明においても見られたところですが、資本主義を自生的に生み出すことができた・・というか、最初から資本主義だった・・のはアングロサクソン文明だけでした。(太田)
紀元前221年に秦が統一する前の中国では、諸子百家が現われては関与しあって、「百家争鳴」という格言を生み出した。・・・
→しかし、「百家争鳴」は、秦以後には見られなくなります。秦は法家を、そして漢以後は儒家を国教化したためです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%B8%E5%AD%90%E7%99%BE%E5%AE%B6
(道家の思想は道教へといわばデフォルメし、土俗宗教化してしまいます。)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E6%95%99
従って、「百家争鳴」が支那の伝統である、とは言えそうもありません。(太田)
中国は、西側諸国の資本主義の独占を破ることで資本主義をグローバル化し、資本主義の文化的環境を広げて文化的多様性を加えることでグローバル市場の秩序を強化している。・・・
1990年代半ばから、ほとんどの国有企業は再編されるか民営化されてきたが、残りの企業は銀行、エネルギー、通信など少数の独占セクターに閉じこもった。 ・・・
フォーチュン・グローバル500に・・・2010年、中国企業42社(香港系4社は除く)がリストに入ったが、私企業は2社だった。 ・・・
国家独占セクターの労働者は中国の非農業労働力の8パーセントにあたるが、その8パーセントが賃金の55パーセントを受け取っている。そのうえ、国有企業は独占利益があるおかげで、私企業に開かれた部門でも優位に立てる。政治的なコネと独占利益を使って私企業を締め出したり買い占めたりもして、市場競争を害している。
国有企業の存在は、資本市場の発達を損なってもいる。金融機関は、利益が守られた国有企業のほうに融資をしたがる。国有銀行が国有企業を政治的にひいきすることは言うまでもない。・・・
→さすがに、これはトウ小平の予想を超えているでしょうね。(太田)
政府が法より上位のままだが、膨大な数の資産を所有するとき、どうしても多くの権利が明示されず、誰でも許可なく使用できる状態(パブリックドメイン)になる。それが政治を腐敗させ、略奪を招き、不正を引き起こして、社会不安と政治的混乱の種をまく。国有企業が法の支配を受けずに営業し、市場競争に影響されなければ、私企業の活動を脅かすだけでなく、慎子と商鞅が明らかにしたとおり社会全体の政治経済の基礎を危うくもする。 ・・・
中国の古典『商君書』から引用する(この著者である商鞅<(注8)>=しょうおう=が2度、秦の始皇帝の国家改革に力を尽くした結果、紀元前221年に、中国は統一された)。
(注8)BC390~338年。秦の孝公に仕える。孝公の子の「恵文王以降の秦の歴代君主は商鞅が死んだ後も商鞅の法を残した。・・・最終的に秦が戦国時代を統一できたのは、商鞅の法があったためと言っても過言ではない。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%95%86%E9%9E%85
「法は人民の権威ある指針にして政府の基盤である。人民を形づくるものである。法を廃止しながら統治に努めることは、食糧を捨てながら空腹を避けたいと願うこと、服を脱ぎながら寒くないようにと願うこと、または東へ行きたいのに西へ向かうことに似ている。実現する見込みがないのは明らかだ。」
「100人の男が、逃げ出したただ1匹のウサギを追うのは、そのウサギゆえではない。ウサギがどこかで売られているとき、法的所有権は明確であるから、泥棒でさえあえて手出しはしない。法的所有権が明確でなければ、堯、舜、禹、唐のような人でも、こぞって追いかける。つまり法と義務がはっきりしていないし、法的所有権も明確でないならば、帝国の民には論争をする機会がある。論争では意見が分かれ、明確な答えは得られない。統治者は上からの立場で法を定めるかもしれず、身分が低い者は反論し、法は確定せず、身分が低い者が優勢となる。これは権利と義務が定まらない状態と呼べるかもしれない。権利と義務が定まらないと、堯や舜のような聖人でも心がねじくれ、邪悪な行為を犯すのだから、どれほど大衆はひどくなることか! このようにして不正、悪行が蔓延していき、統治者は権威と支配力を奪われ、国を滅ぼし、国土と人民に災厄をもたらす。」
同様に、やはり中国初期の哲学者の著作『慎子』<(注9)>で、所有権の線引きが強調されている。「ウサギが1匹、通りを渡っていくとき、100人が追いかける。このウサギを追う者たちは強欲ではあるが、誰のものとも定まっていないのだから、責められない。食肉の市場にずらりとウサギが並んでいても、通行人はほとんど見向きもしない。それはウサギが欲しくないからではなく、権利が定まると、もはや強欲な者も争わなくなるのだ」 ・・・
(注9)「慎到・・・は、中国戦国時代の法家に属する思想家。紀元前4世紀頃の人とされる。・・・道家と法家との折衷的な思想を唱えたとされ、・・・著書として『慎子』42篇があったという・・・が、現存するものは5篇のみであり・・・、近世以降に偽作された部分も含まれる。・・・慎到の思想は、商鞅の思想や申不害の思想とともに韓非へ継承された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%8E%E5%88%B0
申不害(申不害(?~BC337年)は、「戦国時代の韓の政治家。昭侯に仕えて宰相となった。・・・申不害の法律至上主義の考え方は韓非に継承された。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B3%E4%B8%8D%E5%AE%B3
「韓非<(BC280?~233年)(コラム#5628)>の生国韓はこの秦の隣国であり、かつ「戦国七雄」中、最弱の国であった。「さらに韓は秦に入朝して秦に貢物や労役を献上することは、郡県と全く変わらない・・・といった状況であった。故郷が秦にやがて併呑されそうな勢いでありながら、用いられない我が身を嘆き、自らの思想を形にして残そうとしたのが現在『韓非子』といわれる著作である。」秦に滞在中投獄され自殺を強いられて服毒死した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E9%9D%9E
→王寧は長々と法家の思想を紹介していますが、さすがの彼も、この思想が支那の伝統であるとは言っていません。
「中共と毛沢東思想」シリーズ(コラム#5626、5628、5630、5632、5634、5654、5656)で縷々説明したように、法家の思想の核心であるところの、法治主義は、せいぜいイデオロギーとして秦(始皇帝)によって掲げられただけであって、ついに真の意味で実践されることはなく、しかも、漢以後の歴代王朝においては、イデオロギーとしてさえも掲げられることがなかったのですからね。(太田)
(続く)
中共の資本主義化の軌跡(その4)
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