太田述正コラム#6254(2013.6.7)
<純文学と人間主義(その2)>(2013.9.22公開)
(2)人間主義化肯定論
「カナダのヨーク大学の心理学者のレイモンド・マー(Raymond Mar)<(注5)>とトロント大学の認知心理学の名誉教授のケイス・オートレイ(Keith Oatley)<(注6)>は、2006年と2009年に公刊された諸研究の中で、しばしばフィクションを読む人は、他の人々を理解し、彼らと共感し、世界を他の人々の観点から見ることに長けているように見える、と報告した。
(注5)同大学准教授。トロント大博士。支那系のように見える。
http://events.holmesreport.com/gprs-2012/speaker-raymond-mar.aspx
(注6)ロンドン生まれのカナダ人。ケンブリッジ大学心理学で1番、ロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジで博士号。小説家でもあり、最初に書いた小説で英連邦賞受賞。
http://en.wikipedia.org/wiki/Keith_Oatley
この関係性(link)は、彼らが、共感的な人はより多くの小説を読むことを選ぶ可能性を計算に入れた後においても、なお成り立った。
2010年の幼児を対象にしたマーの研究も、似たような結果を見出している。
すなわち、より多くの物語を彼らに読み聞かせると、幼児達の「<他人の>頭についての理論」ないしは他人の意図に係る心理的(mental)モデルが、一層研ぎ澄まされたのだった。
<ただし、読書とは言っても、それは>「深い読書(deep reading)」<でなければならない>、つまり、ウェッブ上で我々がしばしばやっているような表面的な読書であってはならない。・・・
認知科学、心理学、そして脳科学の最近の研究は、ゆっくりとした、没頭した(immersive)、知覚的詳細(sensory detail)及び感情的道徳的複雑性において豊かであるところの、深い読書は、言葉の意味を追う(decoding of words)こととは種類の異なる、独特の(distinctive)経験であることを示している。・・・
文学の要素(stuff)であるところの、感情的諸状況と道徳的諸ジレンマ<を読者が読み取ること>は、脳にとって精力的な運動でもあって、フィクション内の登場人物達の頭の中へと我々を駆り立てるとともに、研究が示唆するところによれば、我々の実生活における共感能力を増進させるのだ。・・・
我々の遺伝子群によって指令を受けたプログラムに従い、通常の諸事情の下で析出されていく(unfold)ところの、話し言葉を理解したり紡ぎ出したりする能力とは違って、<遺伝子群がではなく、>我々が<、自分で>構築する「読書回路群(reading circuits)」は、他の諸目的のために進化した脳の構造からかき集められ<てつくられ>る(recruited)。
この<、こうしてつくられた>回路群は弱体な場合があるし、<たとえ>そうでない場合であっても、我々が、どれだけ頻繁に、かつ精力的にそれらを使うかに<、この回路群がどれだけ発達するかは>かかっている。
深い読書をする人は、気が散ることがないし、言葉のニュアンスに順応(attune)するのであって、心理学者のヴィクター・ネル(Victor Nell)<が「愉楽のための読書に関する心理」についてのある研究<(注7)>の中で、催眠的恍惚(trance)に譬えた状態に入る。
(注7)The Psychology of Reading for Pleasure: Needs and Gratifications,1988
のこと。全文が載っている。↓
http://edt2.educ.msu.edu/DWong/CEP991/Nell-RdngPleasure.pdf
なお、ネルについては、2005年10月当時、南アフリカ大学にいた(上記典拠)ことしか分からなかった。
ネルは、読者が読書経験を最も享受している時には、彼らの読書ペースは実際には遅くなることを発見した。
速く流暢に言葉の意味を追うことと、頁を繰ることを急がないこと、の組み合わせが、深い読書をする人に、自分の読書を、熟考(reflection)、分析、そして自分の記憶と経験によって豊かなものにするための時間を与える。
それは、著者と親密な関係を確立する時間を彼に与え、この二人は、あたかも互いに恋に落ちたかのように、延長された(extended)熱烈な会話に従事するのだ。」
3 終わりに
この「勝負」、明らかにクレゴリー・カリーの負けだと思われたことでしょう。
あれだけ不勉強が甚だしくては、そもそも、「勝負」になっていません。
NYタイムスもよくまあ彼のこんなコラムを掲載したものです。
遅ればせながら、彼のことに興味が湧いたので、調べてみました。
彼は、ロンドンのLSEと米カリフォルニア大バークレー校で教育を受け、豪州とニュージーランドの大学で教鞭を執った後、現職、という人物です。
その彼、今年の秋からカナダのヨーク大学の教授に横滑りする予定である、
http://en.wikipedia.org/wiki/Gregory_Currie
というのですから、レイモンド・マーと同じキャンパスで「対決」することになりそうです。マーに「粉砕」されるのは必至ですが・・。
不勉強云々はともかく、(マー達はもちろんそんな言葉は使っていないけれど、)純文学が人を人間主義化させるというのは、何かの専門家になるというわけではない、という基本的なことがカリーには分かっていないことが致命的です。
つまり、人類は狩猟採集時代には成人の基本的に全員が人間主義者であったというのに、その本性が農業社会になってから抑圧されてきたところ、座禅や純文学等の芸術鑑賞は、この抑圧を解いて、本性たる人間主義性を発露させるだけのことである、ということが彼には分かっていないのです。
カリーが、カーネマンの言う、専門家の愚かさの事例をいくら持ち出しても、そんなものは人間主義的な人の話とは何の関係もないのですから、意味がない、ということです。
で、結論ですが、私のお勧めは、禅堂に赴かなければならない座禅、図書館に一人で赴くか、かさばる本を買うかしなければならない純文学の読書ではなく、ユーチューブで無償で歌謡曲的クラシックの名曲を聴き(注8)、また名映画を昔のものを無償でTVで、新しいものは、たまに家族や恋人と映画館で鑑賞することで、自らの本性たる人間主義性を発露させ続けることです。
(注8)ピアニストのジメルマンが、このようなユーチューブを「音楽を破壊するもの」と非難したところ
http://www.latimes.com/entertainment/arts/culture/la-et-cm-krystian-zimerman-20130604,0,1139427.story
だが・・。
(完)
純文学と人間主義(その2)
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