太田述正コラム#6260(2013.6.10)
<パナイ号事件(その5)>(2013.9.25公開)
 「1937年7月7日、・・・盧溝橋事件<が発生した。>・・・11日に、・・・近衛文麿内閣は、事態を「北支事変」と命名し、・・・華北に派兵する、という政府声明を発表した。さらに政府は、新聞社、政界、財界の代表者を順次首相官邸に招いて政府への挙国一致の協力を要請するという異例の措置までとった。・・・
 これに対して・・・蒋介石は、17日、「最後の関頭にいたれば抵抗するだけである」という廬山談話を発表、対日抗戦の決意を表明した。・・・両国間に警戒と緊張がたかまるなかで、天津と北京の間で日中両軍が銃撃戦を展開する衝突事件が発生(25日朗坊事件<(注11)>、26日広安門事件<(注12)>)、これを契機に28日、日本軍は華北で総攻撃を開始し、現地紛争解決の努力は消し飛んでしまった。・・・
 (注11)「廊坊事件・・・は、1937年・・・7月25日から26日に中華民国の北平(北京市)近郊にある廊坊駅(廊坊)で発生した日中間の武力衝突。郎坊事件と表記される場合もある。・・・
 盧溝橋事件発生以来、天津北平間の日本側軍用電線は度々中国側の為切断されていた。7月25日、廊坊付近で中国軍兵営内を通過する軍用電線が故障したため支那駐屯軍は前もって中国側に通報してから、通信隊とその護衛に第20師団麾下の歩兵第77連隊第11中隊・・・を付けて派遣した。部隊は午後4時半頃、廊坊に到着、付近の守備についていた国民革命軍第二十九軍第三十八師第百十三旅第二百二十六団と折衝を終えてから、その守備区域内を通過する日本軍の軍用電線の修理を開始した。午後11時10分頃、中国軍が小銃と軽機関銃による発砲を開始、廊坊駅の北300メートルの中国軍兵営からは迫撃砲の砲撃が加えられたため、・・・<この>部隊は応戦した。<この>部隊からの連絡により天津駐屯軍は歩兵第77連隊・・・を現場に派遣し、この部隊は翌日午前6時半から午前7時半にかけて戦線に加わり、さらに北平居留民保護の為北上してきた・・・部隊の協力と飛行隊による中国軍兵営への爆撃も加わり午前8時頃中国軍部隊は・・・潰走した。・・・日本側の損害は戦死が下士官1名、兵3名、負傷が下士官1名、兵9名、死傷者の合計は14名であった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%8A%E5%9D%8A%E4%BA%8B%E4%BB%B6
 (注12)「北支事変・・・の1937年・・・7月26日、中華民国冀察政務委員会<(コラム#4008、4010、4616、5569)>の支配地域であった北平(北京市)で起きた国民革命軍第二十九軍による日本軍への襲撃事件。・・・
 北平居留民保護の為に日本軍・・・大隊は26台のトラックで北平城内の日本兵営に向かった。事前に松井特務機関長が部隊の北平外城・・・廣安門・・・通過について冀察政務委員会当局と交渉して秦徳純市長の承諾を得た上で連絡の為に冀察政府軍事顧問桜井少佐が午後6時頃広安門に赴くと門を警備していた中国軍が城門を閉鎖していたため開門について交渉した結果午後7時半頃開門され部隊が門を通過を始めたが部隊の3分の2が通過した時に突如門が閉ざされ<この>部隊を城門の内と外に分断した状態で不意に手榴弾と機関銃の猛射による攻撃を加えてきたため<この>部隊も門の内外から応戦した。中国側は兵力を増強して大隊を包囲し、一方豊台の河辺旅団長により午後9時半救援隊が派遣されたところで折衝により中国軍は離れた場所に集結し、<上記>部隊の内、城内に入ったものは城内公使館区域に向かい、城外に残されたものは豊台に向かうという案がまとめられ午後10時過ぎに停戦し、広部部隊は27日午前2時頃公使館区域の兵営に入った。この戦闘における日本軍の死傷者の合計は19名で、その内訳は戦死が上等兵2、負傷が少佐1、大尉1、軍曹1、上等兵2、一等兵1、二等兵7、軍属2、新聞記者1であり、桜井顧問に同行した通訳1名も戦死している。・・・
 この事件は、直前に起きた廊坊事件とともに中国側の規範意識の欠如と残酷な面を見せつけ、中国側に対して全く反省を期待できない不誠意の表れであり和平解決の望みが絶たれたと判断した日本軍支那駐屯軍は7月27日夜半になって前日の通告を取消し、改めて冀察政務委員会委員長であり、二十九軍軍長でもあった宋哲元に対し「協定履行の不誠意と屡次(るじ)の挑戦的行為とは、最早我軍の隠忍し能はざる所であり、就中広安門に於ける欺瞞行為は我軍を侮辱する甚だしきものにして、断じて赦すべからざるものであるから、軍は茲に独自の行動を執る」ことを通告し、さらに北平城内の戦禍を避けるために中国側が全ての軍隊を城内から撤退させることを勧告した。
 日本軍支那駐屯軍は28日早朝から北平・天津地方の中国軍に攻撃を加える為、必要な部署を用意し、河北の民衆を敵視するものではなく、列国の権益とその居留民の生命財産と安全を図り、中国北部の獲得の意図がないことを布告し、これと同じ内容が内閣書記官長談として発表された。駐屯軍は28日から北平周辺の中国軍に対し攻撃を開始し、天津方面では28日夜半から中国軍の攻撃が開始され、各方面で日本軍が勝利し2日間で中国軍の掃蕩が完了した。
 7月29日には、多くの女性子どもを始めとする在留日本人数百人が「冀東防共自治政府」<(コラム#4008、4010、4683、5044、5323、5569)>保安隊(中国人部隊)に虐殺される通州事件が起き、日本世論は激昂することとなった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%AE%89%E9%96%80%E4%BA%8B%E4%BB%B6
→詳細な廊坊、廣安門両事件の注を付けたのは、笠原が、日本の国会、首相、外務省、陸軍、海軍の動きを紹介しつつ、それらが支那側の動きに触発されたものであったことを隠すために・・と言いたいくらい・・支那側の反日非違行為についての紹介をネグっていることを分かっていただくためです。
 通州事件(コラム#5265、5323)に至っては、笠原は一切触れていませんが、日支戦争史の一局面を記す時に、こんなやり方では、この本は歴史書の名に値しないのであって、笠原は歴史家ならぬ扇動家である、という誹りを受けても止むをえないでしょう。(太田)
 特別召集された・・・第71回帝国議会・衆議院(7月28日開会、8月7日閉会)で、北支事変の勃発にさいして「陸海軍将兵に対する感謝決議」を全会一致で採択、さらに北支事変のための特別追加予算・・・を審議もなく満場一致で可決<した。>・・・
→通州事件等の紹介がなされていないのですから、この本を読んだだけの読者には、衆議院が全会一致でこういう動きを見せたのはどうしてか、殆んど理解ができないはずです。(太田)
 動員や派兵および武力行使の問題をめぐって参謀本部内部でも鋭い対立があり、動揺していたのにくらべ、軍令部は、早くから、対中国全面戦争の作戦を準備する拡大方針を策案していた。・・・7月12日、軍令部は・・・北支事変を北京–天津地域に限定すると言う不拡大方針にもとづく作戦・・・をこえて、当初から全面戦争・・・を想定し、作戦準備を開始した・・・<その時の>用兵方針<は>・・・着実に実行されていった・・・。・・・
 当時の日本海軍艦隊は、連合艦隊(第一艦隊と第二艦隊よりなる)と第三艦隊より編制され、第三艦隊が主要に中国作戦に配備されていた。その第三艦隊司令長官長谷川清中将・・・<は、>政府および海軍省もふくむ軍部中央が不拡大方針をかかげ、現地解決を模索している段階で、・・・中国との全面戦争を構想し、国民政府の首都南京攻略戦の策案をねっていたのである。・・・
 海軍<は、>・・・7月27日に軍令部、海軍省が協議の結果、つぎの<方針>・・・を決定した・・・事態不拡大、局地解決の方針は依然堅持するも、今後の情勢は対支全面作戦に導入の機会大なるをもって、海軍としては対支全面作戦に対する準備を行うこととす。
 これに対して7月29日、参謀本部が策定した「対支作戦計画の大綱」は・・・局地解決をはかろうとしたものだった。・・・
 <しかし、石原<莞爾参謀本部>第一部長は、参謀総長が皇族(閑院宮載仁元帥)であり、参謀次長今井清中将、第二部長渡久雄中将が病臥中という事情から、事実上統帥の最高責任の立場におかれていながら、陸軍中央の対立、反目ゆえに<このような>自説の不拡大方針を維持できなかったのである。・・・
 <それでも、>天皇の意向<もあり、>陸軍中央<は>和平交渉に動き、海軍中央の賛同をえて、外務省、とくに石射<猪太郎(注13)>東亜局長がまとめ役に奔走して、盧溝橋事件発生以来はじめて本格的に・・・停戦・和平工作<が行われ>た<(いわゆる船津工作)(注14)>が、・・・<そこに、>大山事件が発生した。
 (注13)1887~1954年。「東亜同文書院を卒業し満鉄に入社。その後父の仕事を手伝うべく退社したが、父が事業に失敗し失業。岳父から生活援助を受けながら外交官試験の勉強に励み、2回目の挑戦で合格した。」天津総領事館、サンフランシスコ総領事館、駐米大使館、メキシコ公使館勤務を経て通商局第三課勤務、同課長、駐英大使館、上海総領事、吉林総領事、再び上海総領事、駐シャム大使を経て東亜局長。その後、駐オランダ公使、駐ブラジル大使、そして駐ビルマ大使で終戦。戦後、公職追放。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B0%84%E7%8C%AA%E5%A4%AA%E9%83%8E
 (注14)「盧溝橋事件の後、日本は北平(北京)・天津地域を平定したが、その時点で・・・和平へ動き出した。支那側からも信頼されていた元外交官、実業家の船津振一郎を通して蒋介石政府に和平を働きかけた。その際、陸軍、海軍、外務省が一緒になって作りあげた・・・和平案は以下の通りだった。
・塘沽停戦協定、梅津・何応欽協定、土肥原・秦徳純協定など、日本に有利な北支那に対する軍事協定をすべて解消する
・非武装地帯を作る
・冀東・冀東政権を解消し、南京政府の下に置く
・日本駐屯軍の兵隊は以前と同じ状況に戻す
 この案は要するに、満州事変以後、日本が北支那で得た権益のほとんどを放棄しようという・・・ものだった。・・・支那側への要求は満州国黙認、反日運動<の>取り締まりであ・・・った。・・・
 この第一回の話し合いが8月9日に上海で行われる予定だったが、当日に大山大尉虐殺事件が起こり、この工作は交渉初日で頓挫してしまう。」
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/7517/nenpyo/1931-40/1937_funatsu_wahei.html
 8月9日夕方、<海軍>上海特別陸戦隊・・・西部派遣隊長(第一中隊長)、大山勇夫中尉が、・・・一等水兵の運転する・・・自動車で、<移動中、>・・・警備中の中国保安隊に射殺された。・・・一等水兵はそこから引致されて殺害された。・・・
 外務出先はタッチするなという訓令を無視して和平工作に介入した川越・・・茂特命全権大使(上海駐在)<(注15)は、>・・・大山事件の発生後は、広田外相から上海の危急を救うために、至急南京に赴き、あらゆる努力を尽くすように何度も訓電が打たれたにもかかわらず、善後策に動こうとしなかった。・・・「出先機関の訓令無視は、陸軍だけではなくなった」と石射が嘆くような風潮が日本の外交出先機関にも蔓延していたのである。」(49~51、53~55、57、60~62)
 (注15)1881~1969年。東大法卒。「亜細亜局第3課長、吉林総領事を経て、青島総領事・・・、満州国参事官・・・、広東総領事・・・、天津総領事・・・を歴任。1936年・・・5月、駐華大使に就任。・・・1937年・・・7月に日<支>戦争が勃発すると、不拡大を意図した船津工作に訓令を無視して介入。自ら高宗武との会見をおこなったが、翌1938年・・・11月に退官した。第二次世界大戦末期の1945年・・・5月に外務省顧問となったが、戦後GHQにより公職追放。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E8%B6%8A%E8%8C%82
 高宗武(1905~94年)は、「1928年、渡日して九州帝国大学法学部に入学、政治学を専攻。その後東京帝国大学へ学士入学。1932年、中国に帰国。『中央日報』紙に書いた「五・一五事件」についての論文が注目され、まもなく蒋介石のブレーンの一人となった。1934年、28歳の若さにして国民党政府の亜州司長(日本の「外務省アジア局長」に相当)に就任。・・・のちハノイに脱出した汪兆銘と行動を共にしたが、汪兆銘政府樹立直前、日本側の条件があまりに苛酷である事を批判して汪兆銘と訣別した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%AE%97%E6%AD%A6
→ここにも、当時、陸軍同様、外務省においても、日本型経済体制化・・ボトムアップ(下剋上)化・・が進行していた証拠がありますね。
 また、石原莞爾によせ、石射猪太郎にせよ、支那通ではあっても、現場から離れたとたんに支那の蒋介石政権等に対して甘くなり、というか、人間主義的になり、だからこそ、下剋上が一層進まざるをえない、という現象を、陸軍と外務省において見出だすこともできます。
 もう一点。
 盧溝橋事件から始まり、廊坊、広安門事件、通州事件、そして大山事件と、中国共産党の工作もあってか、次々と日本人を狙い撃ちにした挑発行為が蒋介石政権の部隊や同政権に通じた勢力の部隊によって繰り返されたために、日本政府は、世論の憤激もあって、日支戦争を早期に終了させるにさせられなかった、ということを我々はしっかりと銘記すべきでしょう。(太田)
(続く)