太田述正コラム#6276(2013.6.18)
<パナイ号事件(その12)>(2013.10.3公開)
「<このように見てくると、>長谷川清中将が、・・・対米海軍拡張の現実的緊急性を認識させるために、北海事件<(コラム#4546)>や上海水兵射殺事件<(注23)>を口実に華中・華南で「戦果」をあげる作戦準備をした・・・こと<が、>・・・いっそう納得がいくのである。」(119)
(注23)「1935年には中国共産党は抗日救国のため全国同胞に告ぐる書なる宣言を行い抗日運動の拡大が図られ<支那では>親日論は影を潜めていった。また、蒋介石率いる<容共ファシスト政党たる(太田)>政府国民党はナチス・ドイツとの中独合作を強め最新式の武器を得るとともに軍事顧問団を招聘し軍事力を拡大していた。ドイツ軍事顧問団は日本一国に敵を絞って対日戦を行うよう提案し上海に堅固な陣地を構築した。・・・
1935年1月21日、汕頭邦人巡査射殺事件、7月10日、上海邦人商人射殺事件、11月9日、中山水兵射殺事件、1936年7月、萱生事件、8月24日、成都事件、9月3日、北海事件、9月19日、漢口邦人巡査射殺事件など数々の事件が続発し排日はテロ行為にまで激化し<てい>た。
<このような背景の下、>1936年9月23日午後8時20分、上海共同租界海寧路・・・で上陸散歩中の出雲乗組員の水兵4名が呉淞路との交差点付近に差し掛かったところ、停車中のバスに隠れた支那人(中国人)4、5名によって後方から拳銃により銃撃され、田港朝光一等水兵が死亡し、八幡良胤一等水兵、出利葉義己二等水兵が重傷を負った。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E6%B0%B4%E5%85%B5%E7%8B%99%E6%92%83%E4%BA%8B%E4%BB%B6
→注23の第一段落(・・笠原は全く触れず・・)、第二段落(・・笠原は殆んど触れず・・)のような状況下で長谷川中将が対蒋介石政権の作戦準備をしたことを、笠原が、一体どうして「対米海軍拡張」を目論んだものと中傷できるのか、私には全く理解できません。
なお、日支戦争が、盧溝橋事件ではなく、第二次上海事変によって始まったとの認識に立てば、それは、まさに独ソが連携して容共ファシスト政権たる蒋介石政権(第二次国共合作していたので毛沢東政権でもあった)を使って、自由民主主義諸国中、孤立していた日本を弱体化させるために仕掛けた戦争であった、という見方もできそうです。
日本は1936年11月25日に日独防共協定を締結することで、ナチスドイツをこの反日連携から脱落させる手がかりを得ていた(同協定は、日ソ(独ソ)戦が勃発した際にドイツ(日本)が中立を守る秘密附属協定を伴っていた。)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%8B%AC%E9%98%B2%E5%85%B1%E5%8D%94%E5%AE%9A
とはいえ、蒋介石政府軍は、第一次上海事変を、引き続き、ファルケンハウゼン以下のドイツ軍事顧問団の事実上の指揮の下で戦ったのです。(注24)
(注24)蒋介石がドイツ軍事顧問団の「指示」に従わなかったのは、対日戦争を過早に決行した点だけだったと言ってよかろう。
その後の経緯は以下の通り。
「1937年5月には軍事顧問団は100名を超えるまで膨れ上がり、ナチス政権発足前の1928年の30名から大きく増加していた<が、>・・・日独防共協定が締結されると、<蒋介石政権>とドイツの関係は弱められていった。・・・<蒋介石政権>が1937年8月21日に・・・中ソ不可侵条約<を締結すると>ヒトラーの態度は<一層>硬化し、・・・以後新たな対中輸出が認められることはなかった。・・・1938年前半に、ドイツは満州国を正式に承認した。その年の4月、・・・<蒋介石政権>への軍需物資の輸出が禁止された。さらに同5月、日本の要請を聞き入れ、ドイツは顧問団を中国から引き上げた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E7%8B%AC%E5%90%88%E4%BD%9C
「1934年・・・山本五十六少将は、「頭の固い鉄砲屋(海軍の俗語で砲術関係者のこと)の考えを変えるのには、航空が実績をあげてみせるほか方法はない」と・・・語っ<てい>る。
その山本五十六は中将に昇進して35年から航空本部長に就き航空軍備の強化と飛行部隊の育成に尽力、・・・その結果1936年には・・・陸上基地から敵艦隊を攻撃するための・・・航続距離4380キロにおよぶ新鋭爆撃機・九六式陸上攻撃機(中型攻撃機、中攻と略称)<(注25)>が完成した。・・・
(注25)「九六式艦上戦闘機と並んで日本の航空技術が欧米と同等のレベルまで進んだことを示した最初の機体である。・・・日<支>戦争では航続性能を生かして、設計本来の<空母等の艦船攻撃>目的ではない、対地爆撃に多用された。まず台湾や九州の基地を発進し、東シナ海を越え、第二次上海事変で孤立する現地部隊を支援する爆撃を行い、帰還した。これは渡洋爆撃として国内に大きく宣伝された。その後基地を中国本土に進め、中国奥地の漢口や重慶等の都市を爆撃した。・・・太平洋戦争では、1941年・・・12月8日の開戦当日から連日 台湾を発進してフィリピンの<米>軍飛行場を爆撃し、短期間に<米国>の航空戦力を壊滅させた。さらに12月10日のマレー沖海戦では、一式陸上攻撃機と協同で<英>戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスを撃沈し、戦艦に対する航空優位を印象付けた。・・・なお、「空の神兵」として国民に広く知られる事となる日本海軍空挺部隊を運搬したのも、九六式陸攻の輸送機版である九六式陸上輸送機である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%85%AD%E5%BC%8F%E9%99%B8%E4%B8%8A%E6%94%BB%E6%92%83%E6%A9%9F
<そして、山本は、>36年12月に長谷川中将が第三艦隊司令長官に転出したのと入れ替わりに海軍次官に就任、海軍の日中全面戦争化にかかわったのである。・・・
1937年・・・9月10日、ちょうど一年前の上海水兵射殺事件に際して海軍中央が指示した上海公大飛行場<(注26)>の建設・整備がようやく整い、<海軍>第二連合航空隊・・・が大連の周水子基地から移駐した。
(注26)「ニューヨークタイムズ・・・1937年8月14日・・・記事<にはこうある。>
日本は楊樹浦(ヤンジュッポ)にある飛行場の整備を終えつつある。そこは1932年の上海事変で<日本軍用施設として>使われたが、1932年以降はゴルフコースになっていた。明らかに、将来飛行場とすることを考えていたのだろう。
かたや、蒋介石はそのすぐ北方、呉松にドイツ軍の指導のもと、トーチカ要塞を造る。日本側は偽のゴルフ場を造る。第一次上海事変後の両軍の動きを見ると、第二次の日中の衝突があるであろうことは想定の範囲だということがわかる。
こうして台北の主力飛行機は、数機を残して、みなこれら上海の基地に転進してしまった。」
http://uetoayarikoran.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-7b8e.html
上海の航空基地が使用できるようになったため、それまでの渡洋夜間空襲に代えて、戦闘機の護衛をつけた本格的な空襲部隊の出動が可能になった。9月14日、長谷川第三艦隊司令長官は、・・・南京反復攻撃を命令し、さらに、・・・準備できしだい広東・・・漢口、南昌等の・・・攻撃を・・・下令した。・・・
<上海から>出撃する九六式艦上戦闘機<(注27)>は、1936年に完成した・・・新鋭機<だった。>」(122~125)
(注27)「日本海軍・・・最初の全金属単葉戦闘機。・・・空中戦で当時のボーイングやカーチスホークIIIなど中国軍戦闘機を圧倒した。・・・艦上機でありながら、陸上戦闘機と同等以上の性能を有する<世界>最初の機体となった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%85%AD%E5%BC%8F%E8%89%A6%E4%B8%8A%E6%88%A6%E9%97%98%E6%A9%9F
→笠原が目の敵にする海軍軍備増強、就中その航空戦力増強のおかげで、日本は対米英戦劈頭、真珠湾攻撃に成功して米国の在太平洋海軍力を一時的に無力化し、そのことともあいまって、東南アジアにおける制空、制海権を確保できたのであり、その結果、日本は、マライ、フィリピン、インドネシア、ビルマの英米蘭諸植民地を一挙に占領することに成功し、この衝撃が、私の言う、日本の日支・太平洋戦争における戦争目的の、(副次的なものではあったとはいえ、)第3(と主目的の一つであった第2の一部)の達成を可能ならしめたことを、我々は忘れてはいけないでしょう。
なお、隴を得て蜀を望むたぐいではあるけれど、当時の日本政府の総合調整権能が十全でなかったため、海軍に予算を割きすぎ、戦艦大和や武蔵のたぐいの不必要な装備にまでカネをかけたために、陸軍により十分な予算を与えることができなかったことが悔やまれます。
陸軍がもっと近代化されていたならば、ビルマを落とした勢いでインドに侵攻し、占領することも大いに可能であった、と考えられるからです。
そうしておれば、たとえ最終的に日本が敗北していたとしても、アジア(ひいては世界の)欧米植民地を解放したのが日本であったことを、より紛れのない形で世界に示すことができたはずです。
更に言えば、海軍軍備増強、就中その航空戦力増強は、日本の戦後における、戦前に引き続いたところの、高度成長の基盤となった技術力の飛躍的向上をもたらしたことも、我々は銘記すべきでしょう。(太田)
(続く)
パナイ号事件(その12)
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