太田述正コラム#6284(2013.6.22)
<パナイ号事件(その16)>(2013.10.7公開)
「12月1日、大本営は、中支那方面軍の戦闘序列(戦争または戦時に際して天皇の令する作戦軍の編組、それまでは天皇の命令のない「編合」となっていた)下令、同方面軍に南京攻略を命令した(中支那方面軍はすでに南京攻略を開始していたから、実際は追認にすぎなかった)。これを受けて同日、軍令部総長から「支那方面艦隊は陸軍と協力、南京を攻略」せよという大海令(天皇の命令を伝宣する軍令部総長の命令)が発令され、海軍は・・・遡江部隊(第11戦隊が基幹)は、長江両岸の要衝に設置された要塞や砲台を攻撃しつつ、あるいは・・・途中何カ所かに沈船を障害物として設けられた閉塞線を除去しつつ、さらには随所に敷設された機雷を回避または除去・処理(掃海)しながら、南京へと進撃した。
・・・予想外の難行軍を続けた遡江部隊は、中支那方面軍が南京城内を占領した12月13日午後、ようやく南京に突入した。・・・
海軍軍医泰山弘道大佐は『上海戦従軍日誌』に「下関に追いつめられ、武器を捨てて身一つとなり、筏にて逃げんとする敵を、第11戦隊の砲艦により撃滅したるもの約1万人に達せりという」と書いている。海軍の艦船は、長江をわたって逃げようとした、無抵抗の敗残兵、市民に対して一方的な殺戮を行ったのだ。」(169~172)
→笠原は、これが前出の「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」違反だから虐殺だとする(173)のですが、降伏していない敵残兵の掃蕩なのですから、全く問題はありません。(太田)
「南京のすぐ下流の長江に八卦洲とよばれる大きな中洲がある。そこに・・・長江をわたって流ついた将兵や民間人が何千人と避難していた。ところが、すぐに日本軍官に発見され、・・・数日後に全員が長江の岸辺に集められ、集団虐殺されたのである。」(173)
→笠原は、ここは、蒋介石軍将校で、この中洲から「筏をつくり明け方の濃い霧を利用して脱出に成功した」(173)人物の証言によっており、この証言の信憑性の問題もあるけれど、そもそも、この人物が伝聞に基づいて語っている「集団虐殺」を、そのまま事実であると笠原が受け止めた根拠について、笠原は全く記していません。
もとより、私は、日本軍が捕虜虐殺を南京城外で行った可能性が高いとは考えているわけですが、やったとしたらそれは陸軍の方でしょう。
この証言者は、虐殺したのが海軍であったのか陸軍であったのか特定していないようであるにもかかわらず、笠原が、海軍も捕虜虐殺を行ったと読める記述を行った点も問題です。
海軍でも陸軍でも同じではないか、というわけにはいきません。
笠原が、海軍悪者論を展開している以上、この点は重要だからです。(太田)
「この間、南京に対する空襲爆撃も継続して行われ<た。>・・・
12月2日・・・はソ連製のи16型戦闘機<(注35)>約20機と交戦、さらに上空にマルチン重爆撃機<(注36)>の編隊を発見して攻撃、爆撃隊は南京大校場飛行場を爆撃した。・・・その日の成果はи16型戦闘機10機撃墜(うち3機不確実)、マルチン重爆撃機3機撃墜、南京大校場飛行場の格納庫付近に60キロ陸用爆弾12個命中、であった。日本側の被害は、戦闘機3機が機銃弾をそれぞれ数発ずつあびて弾痕をつけられた程度であった。・・・
(注35)「ポリカルポフ I-16(・・・Polikarpov I-16)は、ソビエト連邦のポリカルポフ設計局の開発した単葉戦闘機である。戦間期から第二次世界大戦の初期にかけて労農赤軍の主力戦闘機を務めた、世界最初の実用的な引き込み脚を持った戦闘機である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/I-16_(%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F)
(注36)マーチンB-10のことと思われる。「<米>陸軍航空隊向けにマーチン社が開発した爆撃機である。・・・1933年にYB-10として48機が発注された。YB-10が15機(1機はターボ過給機試験用)生産された後、残りはエンジンを強化したYB-12(32機)やXB-14(1機)に変更された。・・・1938年5月19日に中華民国軍所属のB-10B(中国名:馬丁式重轟炸機)が、中国大陸から日本の九州上空に飛来し、鹿地亘作成によるプロパガンダビラを散布する軍事行動をした。そのため、日本本土に軍事作戦で侵入した初めての爆撃機となった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/B-10_(%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F)
→既に対日米ソ「合作」が成立しているとさえ言える、蒋介石政府の飛行部隊のラインアップですね。(太田)
蒋介石は虎の子の飛行部隊のそれ以上の損失を恐れて奥地へ撤退させたため、以後・・・南京攻略戦は日本軍の完全な制空権下に行われることになった。・・・
→石射猪太郎が、その3か月以上も前の8月26日に起こったヒューゲッセン事件の時に、「当時上海方面の制空権が、完全にわが海軍に帰していた」と日記に記した(コラム#6264)ことがいかに荒唐無稽なことであったか、ということです。
これもまた、日本の外務省の官庁間情報収集能力のお粗末さと、石射を始めとする外交官の不勉強に由来するところの軍事に関する識見の欠如を端的に物語る事例です。(太田)
12月3日、第二連合航空隊は南京の東南、上海–南京のおよそ3分の1の訳130キロの位置にある常州に前進基地をひらき、同隊の約半数の兵力を移駐させ、同基地から南京爆撃へ発進できるようになった。・・・
12月8日、上海の岡本総領事は、上海領事団首席領事に対して第三国人は一律に南京を立ち退くように申しいれを行い、翌9日同じく岡本総領事は、上海の外交団および領事団に対し「揚子江沿岸各地において、各国がその船舶車輛を支那側より遠ざけ、交戦地域以外に移転し」「出来うべくんば戦闘地域より完全に離脱せんことを希望」「もって帝国軍の第三国財産尊重の努力に協力せらるるよう通報」した。・・・
この通告によって、交戦地域にいる第三国人の方が悪いという思い上がりが現地日本軍指揮官に生ずることになり、パナイ号事件発生の要因になっていく。」(174~176、179~180)
→「思い上がり」どころか、端的に申さば、「交戦地域」にとどまった「第三国人」が日本軍から攻撃を受けたとしても、日本の責任ではない、という趣旨の通報だったのですから、「戦闘地域」にとどまった方が悪いに決まっているではありませんか。
9月19日、20日に長谷川第三艦隊司令長官が南京空爆宣言を行った時、駐華米国大使ジョンソンは、ただちに米「河川用砲艦ルソン号とグアム号に大使館員一行をを連れて避難し」(138)ていますが、12月9日の岡本総領事による「戦闘地域・・・離脱」通報については、米海軍が、それを無視して離脱しなかった、いや、より正しくは、(前述したように、)「離脱」していた可能性が高いパナイ号等に戦闘地域の中心に取って返すという自殺行為を行わしめたのは、一体どうしてなのでしょうか。(太田)
(続く)
パナイ号事件(その16)
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