太田述正コラム#6294(2013.6.27)
<パナイ号事件(その21)>(2013.10.12公開)
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<補論3>
松井石根のウィキペディアの次のくだりに違和感があったので追及してみた。
「参謀本部と政府は上海事件の不拡大を望んでいたが、松井は上海近辺に限定されていた権限を逸脱して、当時の首都南京を攻撃・占領した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E4%BA%95%E7%9F%B3%E6%A0%B9
笠原は、次のように記述している。
「上海派遣軍と第10軍を合わせて中支那方面軍を編合したさい、参謀本部は「中支那方面軍の作戦地域は概ね蘇州、嘉興を連ぬる線以東とす」(臨令第六百号)と制令線を指示し・・・<てい>た。・・・
11月15日、下村定<(注40)参謀本部>第一部長<は、>(まだ南京攻略は考えていなかったが)制令線を越えて中国軍を追撃することに執着し、作戦課長河辺虎四郎<(注41)>大佐が上海に赴き、現地軍の状況を調査し、その結果にもとづいて方針を検討することになった。・・・
(注40)1887~1968年。陸士・陸大。最終階級は大将。駐仏武官等を経て、1936年参謀本部第四部長、1937年9月、石原莞爾の後任として同第一部長。東久邇宮内閣で最後の陸相。戦後、参院議員1期。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E6%9D%91%E5%AE%9A
(注41)1890~1960年。陸士・陸大。最終階級は中将。駐ソ武官等を経て1937年参謀本部戦争指導課長、次いで、武藤章(下出)の後任として作戦課長。その後、駐独武官等を経て参謀次長で終戦。「連合国と会談するため全権としてマニラに赴いている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E8%BE%BA%E8%99%8E%E5%9B%9B%E9%83%8E
河辺課長は・・・「方面軍参謀長以下おおむねただ今の作戦の一段落を見れば、兵力の整理休養を必要と認めあり」という報告を送った。そのとき、松井石根中支那方面軍司令官のみ「ただ今は軍隊が疲労しているので、今すぐにとは言わぬが、南京攻略はぜひやらねばならぬ」と南京攻略に意欲を燃やしていた。・・・
<ところが、>第10軍では11月15日、軍司令官柳川平助中将臨席のもとに幕僚会議を開き、軍主力をもって独断南京追撃を敢行することを決定していた。
<そして、>11月20日、第10軍から「集団は19日朝、全力をもって南京に向かってする追撃を命令」という報告(11月19日発電)が届いた。多田<駿(注42)(コラム#3776、4548、5569)>参謀次長は非常に驚き、急を要するのでただちに中止させ、制令線から後退させよ、と指示した。拡大派の下村第一部長は内心は南京追撃論だったので、本問題は中支那方面軍の統帥にまかせるべきであると意見を述べた。しかし、多田次長の強い意見にしたがい20日夕方、中支那方面軍参謀長あてに「第10軍の南京追撃は臨命第六百号[作戦地区]指示の範囲を逸脱している」と打電した。・・・
(注42)1882~1948年。陸士・陸大。最終階級は大将。北京陸軍大学教官を3度務める。満州国最高顧問。支那駐屯軍司令官、第11師団長を経て参謀次長。その後、第3軍司令官、北支那方面軍司令官を経て軍事参議官、そして1941年9月予備役。・・・A級戦犯の容疑で逮捕<されるが病死。ただし、釈放される予定だった。>
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E7%94%B0%E9%A7%BF
「日<支>戦争における第3軍は、第1方面軍の指揮下主に満州東部国境の琿春正面の守備に当っていた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC3%E8%BB%8D_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BB%8D)
11月24日には天皇の隣席のもとに、・・・第一回大本営御前会議が開かれた。同会議で参謀本部の下村第一部長が、中支那方面の陸軍の作戦計画についてつぎのように説明した。
この軍[中支那方面軍]は、上海付近の敵を掃滅するを任務とし、かつ同地を南京方面より孤立せしむることを主眼として編組せられておりまする関係上、その推進方には相当制限がございますのみならず、目下その前線部隊は輜重はもとより砲兵のごとき戦列部隊すらもなお遠く後方にあるもの尠くございません。したがって一挙ただちに南京に到達し得べしとは考えておりませぬ。
この場合、方面軍はその航空部隊をもって海軍航空兵力と協力して南京その他の要地を爆撃し、かつ絶えず進撃の気勢をしめして敵の戦意を消磨せしむることと存じます。
統帥部といたしましては、今後の状況いかんにより該方面軍をして新たなる準備態勢を整え、南京その他を攻撃せしむることをも考慮しております。
右の説明のなかで、「南京攻撃」の部分は起案原稿にはなく、下村第一部長が多田参謀次長の承認をえずに、御前会議の場で抜け駆け的に挿入説明したものだった。・・・
11月24日、第10軍につづいて、今度は中支那方面軍から「事変解決を速やかならしむるため、現在の敵の頽勢に乗じ、南京を攻略するを要す」という意見具申が届き、・・・下村第一部長は、なお前進不可論を堅持する多田参謀次長を説得して、中支那方面軍作戦地域を制限している制令線の廃止を指示した(大陸指第五号)。・・・
それでもこのとき、多田参謀次長は戦線拡大を深く憂慮し、中支那方面軍参謀長あてに、南京方面へは進撃しないように電報を打っている。・・・
中支那方面軍参謀副長には、参謀本部内の拡大派の中心であった武藤章<(注43)(コラム#4120、4548、4963、5455)>大佐が、参謀本部所属のまま出張の形式で派遣されていた。その武藤参謀副・・・長は、参謀本部がまだ正式に南京攻略戦を承認していない段階で、上海派遣軍の師団長に対して、南京進撃中の第10軍の師団の「戦功」をもちあげて露骨に挑発し、南京への急進撃をけしかけた・・・。・・・
(注43)1892~1948年。最終階級は中将。陸士・陸大。[1936年・・・関東軍が進めていた・・・いわゆる「内蒙工作」・・・に対し、中央の統制に服するよう<参謀本部作戦課長であった石原莞爾が>説得に出かけた時には、現地参謀であった武藤章が「石原閣下が満州事変当時にされた行動を見習っている」と反論し同席の若手参謀らも哄笑、石原は絶句したという。]1937年3月に参謀本部作戦課長、11月1日に中支那方面軍参謀副長、等を経て、「1939年・・・9月陸軍省軍務局長となる。・・・1941・・・年11月に東条内閣が成立する。組閣に当たり天皇より開戦を是とする帝国国策遂行要領白紙還元の御諚が発せられ、東條首相も姿勢を改める。武藤はこれを受け、開戦に逸る参謀本部を制して最後まで対米交渉の妥結に全力を尽くした。
開戦後<は今度は>戦争の早期終結を主張・・・<したが、>・・・第14方面軍(フィリピン)の参謀長<として>・・・フィリピンの地で終戦を迎え・・・<上司たる>第14方面軍司令官<の>・・・山下に共に切腹することを提案するが、説得され、現地で降伏。・・・東京裁判で捕虜虐待の罪により死刑判決を受ける。東京裁判で死刑判決を受けた軍人の中で、中将の階級だったのは武藤だけ・・・。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%97%A4%E7%AB%A0
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E8%8E%9E%E7%88%BE ([]内)
いっぽう参謀本部の下村部長は、「当部においては南京攻略を実行する固き決意の下に着々審議中なり、いまだ決裁を得るまでにはいたらざるも取り敢えずお含みまで」と中支那方面軍参謀長あてに打電し(11月27日)・・・た。これに対しては「ただ今、貴電を見て安心す、勇躍貴意にそうごとくす」という返電が寄せられている。・・・
12月1日、大本営は「中支那方面軍は、海軍と協同して敵国首都南京を攻略すべし」(大陸命第八号)との南京攻略を下令して、中支那方面軍の独断専行を正式に追認した。」(156~157、160~163、166)
このように、笠原もまた、南京攻略戦の開始について、中支那方面軍、すなわち松井の独断専行であった、と総括しているわけだが、そこに至る笠原自身の上記記述に照らしてもそれはおかしい。
1937年1月7日に参謀本部第1部長心得となり、3月1日に陸軍少将に昇任と同時に参謀本部第1部長に正式に就任した石原莞爾が、そのわずか半年後の9月27日に関東軍参謀副長へと「左遷」させられた
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E8%8E%9E%E7%88%BE 上掲
段階において、松井は、陸軍中央が日支戦争に関して積極論でまとまったと受け止めたはずであり、11月1日に積極派の武藤章が自分の直接の部下として参謀本部から送りこまれた時点でこの認識は一層確固としたものになったと考えられるのであって、爾後の松井の言動や、彼の部下の第10軍や上海派遣軍の言動は、参謀本部第一部長の下村による阿吽の「指導」を受けたものであったこともあり、独断専行であったとは到底言えない。
そもそも、独断専行をあれほど嫌った松井が、第10軍司令官や武藤らによる独断専行を許すはずもなく、いわんや、自分自身が独断専行するわけもなかろう。
従って、冒頭に掲げたウィキペディアの記述は訂正を要する。
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(続く)
パナイ号事件(その21)
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