太田述正コラム#6310(2013.7.5)
<世俗化をもたらした宗教改革?(その5)>(2013.10.20公開)
 戦後の全体主義諸国家による宗教を根絶する試みは、1949年にジョージ・オーウェルが『1984年』の中で心に描いたシナリオの実現であるかのように見えていたが、その大部分の諸体制は1984年という年以降長くは持たなかったところ、<あにはからんや、>より「リベラル」な諸国家におけるシナリオの方が、<何と、>1932年にオルダス・ハックスレーが『素晴らしい新世界』の中で予見した快楽原理に基づく同調性(conformity)と従順という、「ソフトな」反復説教(inculcation)に似たものになりつつある。」(H)
 「米国人達は、今なお、宗教的崇拝と慈善的供与に関する世俗的諸標準に対する例外(outlier)だ。・・・
 福音プロテスタント達は、統計的に、福祉国家主義に不信を抱く傾向がよりあり、カトリックに比べて収入のうちより高い割合を供与する傾向がある。」(G)
→グレゴリーは、原理主義的キリスト教が依然根強い米国が、欧米における脱世俗化の旗手になることを夢見ているわけです。(太田)
 (3)反宗教改革
 「<プロテスタントに対抗するところの、>カトリックの弁護戦術の一つは、16世紀央に始まるが、・・・<それは、>特定の諸教義の擁護は止め、それらの教義を提案している教会の、外部的な「真理の印(marks of truth)」でもって地歩を占めるというものだった。
 真理の印が、統一(unity)、普遍(universality)、永遠(perpetuity)。そして聖(holiness)、であることから、かつまた、カトリック教会が、様々なプロテスタント諸教会が一見して持っていなかったところの、これらの諸特性を明らかに持っていたことから・・。
 この戦術は、1650年におけるスウェーデンのクリスティーナ(Christina)女王<(注10)>のそれが最も華々しいものだったが、数多くの選良達をカトリックへ改宗させることに資した。」(H)
 (注10)1626~89年。女王:1632~54年。「<1654年>に従兄カール10世に王位を譲り、外遊を始めた。翌1655年にインスブルックで誓絶式を行い、<ルター派から>カトリックに改宗した。1655年12月ローマに到着し、以後ローマに居を定め各国を旅行して廻った。・・・平和を願い、カトリックとプロテスタントの融和を説<いた。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%8A_(%E3%82%B9%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%B3%E5%A5%B3%E7%8E%8B)
 (4)グレゴリー批判
 「グレゴリーの諸結論は冷酷だ。
 すなわち、「キリスト教徒達自身が設定した諸条件やキリスト教自身の指導的な賛同者達の諸目的に照らせば、中世のキリスト教は失敗し、宗教改革は失敗し、宗教国家化した(confessionalized)欧州は失敗し、欧米の近代は失敗しつつある」と。
 しかし、彼が提供する、解決法ないしは部分的解決法は、殆んどばかげている。
 彼は、我々は学問の府を「脱世俗化」させるべきだと主張する。
 換言すれば、研究諸大学において、宗教的真理に係る諸主張が議論され討論されるべきだ、と。・・・
 しかし、丹精を凝らした詳細さでもって、<グレゴリーから、>16世紀に人々が宗教的諸真理について議論した時に何が起こったかを示された以上、21世紀の人々が、当時と同じ諸議論を再度行うことで現代の諸問題に対する諸解決方法に到達することができると、一体どうしてグレゴリーは信じることができるのだろうか。」(B)
 (5)アングロサクソンの異議申し立て
 ア ウィクリフ 
 「<ルターらも、>「聖書のみ」の宗教改革の原則を援用したことは確かだ。
 しかし、結局のところ、ジョン・ウィクリフ(John Wycliffe)<(注11)>、ヤン・フス(Jan Hus)<(注12)>、ピエール・ヴァルドー(Pierre Valdo)<(注13)>、アーノルド・ディ・ブレシア(Arnold di Brescia)<(注14)>という具合に、12世紀以降に次々に出てきたところの、急進的な中世の宗教改革者達だって「聖書のみ」を唱えた。
 (注11)1320?~1384年。「オックスフォード大学の教授であり、聖職者であったウィクリフは、ローマ・カトリックの教義は聖書から離れている、ミサに於いてパンとワインがキリストの本物の肉と血に変じるという説(化体説)は誤りである等、当時イ<ギリス>において絶対的権力を持っていたローマ・カトリックを真っ向から批判した。イ<ギリス>国王が英語の聖書を持たないのに、ボヘミア出身のアン王妃がチェコ語の聖書を所有していることに矛盾を感じていた彼は、晩年になってから、彼がかつて司祭をしていたラタワースに戻り、聖書を英語に翻訳した。信徒の霊的糧である聖書とそれに基礎を置く説教を重要視し、翻訳した聖書を持った牧者たちを地方に派遣した。・・・
 ウィクリフは死後30年ほど後、1414年のコンスタンツ公会議で異端と宣告され、遺体は掘り起こされ、著書と共に焼かれることが宣言された。これは、12年後にローマ教皇マルティヌス5世の命により実行された。ウィクリフの墓は暴かれ、遺体は燃やされて川に投じられた。
 1401年の反ウィクリフ派法は、ウィクリフの名誉を汚し、ウィクリフに共鳴する者を迫害することを定めた。1408年には、ウィクリフの著書および聖書を英訳して読むことは死に値する異端の罪であるとした。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%95
 (注12)1369~1415年。「ボヘミア出身の宗教思想家、宗教改革者。彼はジョン・ウィクリフの考えをもとに宗教運動に着手した。彼の支持者はフス派として知られる。カトリック教会<により>、フスは1411年に破門され、コンスタンツ公会議によって有罪とされ・・・火刑に処された。・・・
 1382年に<ボヘミアの>ヴァーツラフ王の妹アンナ<(アン)>がイ<ギリス>王リチャード2世と結婚し、その影響で、ウィクリフの哲学書がボヘミアにも行き渡り、広く知られるようになった。・・・
 教会大分裂(シスマ)<下、>・・・1411年に教皇ヨハネス23世は、<もう一人の教皇たる>グレゴリウス12世を庇護するナポリ王国のラディズラーオ1世を制圧するために十字軍・・・を派遣した。十字軍の遠征費用を賄うため、教会は免罪符の売買を始めた。プラハでも、免罪符の説教者は人々を教会に集め、寄進を勧めた。フスは、ウィクリフの例を出して免罪符にはっきりと反対し・・・た。1412年に、フスが発表した論文 ・・・<に>は、ウィクリフの著書・・・<からの>引用<があり、>・・・フスは、教会の名のもとで剣を挙げる権利は教皇にも司教にもなく、敵のために祈り、罵るものたちに祝福を与えるべきであ<り、>・・・<また、>人は真の懺悔によって赦しを得、金では購うことはできないのである・・・と主張した・・・。・・・
 <そして、フスのもう一つの>著作は、最初の10章まではウィクリフの同名の著作の要約で、続く章では同じくウィクリフの<別の>著作・・・の摘要を受け継ぐものであ<り、>ウィクリフ<の>「教会は聖職者だけで構成される」という一般的な考えに対抗し<た考えを打ち出した。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%B9
 (注13)ピーター・ワルドー(Peter Waldo。1140~1218年)。「フランスの宗教家。ワルドー派の始祖。リヨン出身の裕福な商人だったが、1173年頃に霊感を受け、全財産をなげうって・・・ワルドー派を形成した。1184年に教会から破門され<た。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%AF%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BC
 「ワルドー派 (Waldensians)は、ヴァルド派ともいい、12世紀の中世ヨーロッパで発生したキリスト教の教派の1つであ<り、>カタリ派と並んで中世<欧州>を代表する異端として扱われた。・・・<そ>の特徴は清貧の強調と、信徒による説教、聖書の(ラテン語からの)翻訳であった。・・・ジョン・ミルトン・・・はワルドー派をプロテスタントの先駆者と認め「私たちの先祖たちが木や石(の偶像)を拝んでいた時に、古い真理を守った」と述べている。また・・・現在はプロテスタントの一派として認められ<ている。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BC%E6%B4%BE
 (注14)ブレシアのアーノルド(Arnold of Brescia。1090?~1155年)。イタリアのロンバルディア出身の在地僧侶(Canons Regular)。教会は土地や財産を所有すべきではないとの教会の清貧(apostolic poverty)を唱えた。ローマ・コミューン(Commune of Rome)の設立・運営に参画したことにより、皇帝軍により死刑に処された。
 彼自身が書いたものは何一つ残っていないが、エドワード・ギボンは彼を高く評価した。
http://en.wikipedia.org/wiki/Arnold_of_Brescia
http://en.wikipedia.org/wiki/Apostolic_poverty
 ローマ・コミューンとは、1144~93年の間、聖俗の支配を排除し、かつての共和政ローマに倣った政体をローマに復活させたもの。
http://en.wikipedia.org/wiki/Commune_of_Rome
→ブレシアについては、宗教改革の先駆者とは言えそうもありませんが、ヴァルドーは、聖書を翻訳し、教会を介在させないところの、聖書に直接基づくキリスト教という考え方を打ち出した点で、宗教改革の先駆者と言えるでしょう。
 しかし、(ウィクリフがヴァルドーの影響を受けているいないとにかかわらず、)欧州の宗教改革の祖は、間違いなく、欧州ならぬイギリスのウィクリフでしょう。
 私の見解では、彼は、前述のイギリス古来の自然宗教観でもってキリスト教を再解釈した、ということなのであり、ウィクリフの考えが、フスの手で欧州に移植され、それがフスの処刑後も、引き続き欧州中に静かに広まって行き、やがてそれが、ルターやカルヴィンによって声高に唱えられるに至った、ということなのです。
 すなわち、私に言わせれば、ルターやカルヴィンの主張したことなど、ウィクリフの、二番煎じどころか、三番煎じに他ならないのです。(太田)
 彼らは、方や聖書に顕現されたイエスと使徒達の生涯とメッセージ、方や同時代の聖職達の<醜悪な>実例、との間の懸隔に衝撃を受け、典型的には、各種の理由により、<カトリック教会が>新しい宗教的団体(new religious order)になる展望が失われた後、この<カトリックの>聖職者によって司られる諸秘跡を拒絶した。
 急進的宗教改革と呼ばれるものの多くは、何世紀もの長きにわたる異教的潜在性(latency)の継続ないしは拡張のようにも見える。
→私は、欧州における、欧州に潜在していた北欧神話のような異教ではなく、イギリスに潜在していた自然宗教的な異教が、イギリスにおいて英国教を、そして隣接する欧州大陸において、いわゆる宗教改革を生み出した、と考えているわけです。(太田)
 だから、法王の会衆(papal fold)から諸国家の総体が離反したことによって新たに創造された空間を暫定的に占拠した時、聖書的かつ使徒的例示を華々しく援用する準備が常になされていたのだ。」(H)
(続く)