太田述正コラム#6330(2013.7.15)
<忘れられた大量虐殺>(2013.10.30公開)
1 始めに
 インドネシアで1965~66年に起こった9月30日事件(注1)は、数十万人の共産党系の人々が虐殺されたにもかかわらず、余り言及されることがありません。
 (注1)「スカルノは・・・国軍を牽制するために共産党に接近し、両者のバランサーとして振る舞うことによって、権力を維持しようとした。・・・
 1965年9月30日(木曜日)深夜、首都ジャカルタにおいて、大統領親衛隊第一大隊長のウントゥン・ビン・シャムスリ中佐(Untung bin Syamsuri, 1926年 – 1966年)率いる部隊が軍事行動を開始し、この一団は、翌10月1日未明までに、陸軍の高級将校6名を殺害し、国営ラジオ局(RII)を占拠し、・・・インドネシア革命評議会の設置を宣言した。
 陸軍の主だった首脳が死亡・逃亡し最高司令官が不在となったことにより、一時的に陸軍最高位に立つこととなった戦略予備軍司令官スハルト少将は・・・スカルノから治安秩序回復の全権委任を得・・・<、彼>の主導のもと、クーデター首謀者とされたウントゥンや事件に関与したとして共産主義者、約50万の人々、特に40万の中国系の集団虐殺が起きた(華語教育や文化活動も同時に禁止された)。20世紀最大の虐殺の一つとも言われ、50万人前後とも、最大推計では300万人とも言われるその数は今日でも正確には把握されていないが、こうした残虐な大虐殺は、1965年10月から1966年3月ごろまでスマトラ、ジャワ、バリで続いたと見られる。・・・
 このように共産主義勢力を物理的に破壊していく過程で大きな役割を果たしたのは、「共産主義者狩り」に動員された青年団、イスラーム団体、ならず者集団であった。さらにスハルトは、こうした市民団体を動員して、事件についてのスカルノの責任を追及する街頭示威行動を取らせ、スカルノに大統領辞職の圧力をかけた。
 そして1966年3月11日、スカルノはスハルトに大統領権限を委譲する命令書にサインして、インドネシアの政変劇は終幕した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/9%E6%9C%8830%E6%97%A5%E4%BA%8B%E4%BB%B6
 米スレート誌がこの事件及びその米国との関わりを取り上げていた
http://www.slate.com/articles/arts/history/2013/07/the_act_of_killing_essay_how_indonesia_s_mass_killings_could_have_slowed.single.html
(7月12日アクセス)ので、そのさわりをご紹介し、私のコメントを付そうと思います。
2 忘れられた大量虐殺
 「<虐殺の実行犯たる一人のインドネシア人は次のように語っている。>
 「我々が殺した人々は、どうすることもできなかった。
 彼らは受忍しなければならなかった。
 私は、言い逃れをしているのかもしれないが、それでいいのだ。
 私は罪の意識を感じたことはないし、落ち込むこともなかったし、悪夢にうなされたこともない。」・・・
→これほどの虐殺行為をやらかした彼らでさえ、PTSDとは無縁である、ということです。
 太平洋戦争やベトナム戦争等における米兵のPTSD罹患者の続出がいかに異常なことであったかが分かろうというものです。(太田)
 <彼らは、>ナイフも銃も使わなかった。
 彼の道具は、椅子、ピアノ線、それに棒だった。
ピアノ線を犠牲者の首に巻く。
 引っ張ってから捩じる。
 これは、即製の絞首刑台だった。
 犠牲者達は、しばしば、<共産党の>政党事務所の2階のベランダ(porch)に連れて行かれた。
 (そこでは、今では、ハンドバッグや装身具が売られている。)
 彼は、犠牲者達がどのように命乞いをしたか、死体がどのように黄麻布に入れられて川に投げ捨てられたかの物語を語った。
 以上の全ては全く無感情に語られた。
 彼は、まるで、家族でのピクニックを描写しているかのようだった。・・・
 マクナマラ<は、>回想録の『回顧の中で(In Retrospect)』<の中で、>・・・このように記している。
 「ジョージ・F・ケナン(George F. Kennan)・・彼の封じ込め戦略は我々の南ベトナム防衛へのコミットメントが行われた顕著な(significant)理由(element)だった・・は、1966年2月10日の米上院聴聞会で、中共は「インドネシアで巨大な後退を喫した。…それはまことに顕著な後退であって、自分達の権威の拡大に向けての希望を<大いに>制約するものだった」と主張した。
 この出来事は、ベトナム<防衛>の米国にとっての重要性を著しく減少させた。
 彼は、<インドネシアにおけるドミノ倒しの危険がなくなった現在、>より少数のドミノしかもはや残ってはおらず、ドミノ倒しの可能性は著しく減った、と主張した。・・・
 ケナンは、ベトナム戦争・・南ベトナムへの侵攻(invasion)と北ベトナムの爆撃、及び、それに伴ったところの、58,000人の米兵士及び100万人を超えるベトナム人の死・・は不必要だった、と言ったわけだ。
 カンボディアとラオスにおける「コラテラル・ダメージ」については言うまでもなく・・。・・・
ケナンは、この<ベトナムでの>戦争をエスカレートさせることに警告を発したわけだが、<当時、>マクナマラは聞く耳を持っていなかった。
 しかし、<コラムニストたる私は、>・・・インドネシア共産党(PKI)の破壊がベトナム戦争の必要性を消去したとの観念<にびっくりした>だけでなく、米国がこの全てにおいて果たした役割の大きさにもびっくりした(注2)。・・・
 (注2)「スカルノ政権による外資凍結、外国企業接収は、それらに利権を有していた欧米諸国からの非難を呼び起こし、それまでインドネシアの独立を支持していた<米国>もスカルノに対して不快感を強めていった(ここからスカルノ政権の転覆を図るために<米国>のCIAが9月30日事件を策謀したという説が出てくる)。
 <なお、>1961年に、マレー半島一帯の宗主国であったイギリス政府の肝いりでマレーシア連邦が建国されると、スカルノはこれを「旧宗主国による植民地主義の復活である」として厳しく非難、国軍部隊を派遣して「マレーシア粉砕」を高らかに宣言し、1962年からは軍事衝突が断続的に起こった・・・。これがさらなる国際的非難を招くと、1965年1月にはマレーシアの国・・・連・・・安・・・保・・・理・・・非常任理事国への当選に抗議して国際連合からの脱退を敢行し<ていた。>」(ウィキペディア上掲)
 <もっとも、外国の>諸政府を転覆させることに米国の秘密諸作戦が成功することもあるかもしれないが、そのほぼ大部分は米国が秘密作戦をやるやらないにかかわらず必然的に成功したか、それとも、10回以上も、成功するまでに・・しかもかろうじて成功するまでに・・失敗したか、どちらかなのだ。・・・
→私がかねてから指摘していることですが、とにかく米国の諜報活動は、英露等に比べ、お粗末極まるのです。
 それはともかく、スハルトらにすれば、スカルノの対蘭英闘争並びにインドネシア共産党との癒着関係は、少し前の蒋介石の対日闘争並びに中国共産党との癒着関係と生き写しであり、その後支那で共産主義政権が樹立された鐵を踏まないように、中国共産党ならぬインドネシア共産党を壊滅させ、蒋介石ならぬスカルノを権力の座から引きずり降ろし、対日闘争ならぬ対英蘭闘争を終結させた、ということでしょう。
 そんなところに米CIAの出番など、基本的にあるわけがありません。
 もとより、スハルトらは、CIAから提供された活動資金やインドネシア共産党幹部リスト等はありがたく頂戴した
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%83%88
ことでしょうが・・。(太田)
 2006年に<今度は、>ケナンは、以下のように言ったものだ。
 「米国の外交史、とりわけ軍事外交史、を一度でも学んだことのある者なら、誰でも、あなたの目的として特定の諸物事を念頭において戦争を始めるかもしれないけれど、前に全く考えていなかった完全に異なった諸物事のために戦っている自分自身を発見すること<になるの>を知っている…。
 換言すれば、戦争というものは、それ自身の勢いを持っており、<その勢いは、>あなたがその戦争に関わった時の思慮深い諸意図からあなたを運び去ってしまうのだ。
 今日においては、もし我々が、大統領が我々にやって欲しがっている、イラクへの侵攻を行うことになれば、あなたはそれを始めた場所は分かっている。
 しかし、最終的にあなたがどこに赴くことになるのかは決して分からない。」
→このくだりは、一般論としては正しいけれど、対イラク戦に関して言えば、米国(や英国)は戦うべきであったことを、私としては、強調しておきたいと思います。
 米国があれほど拙劣なイラク占領を行ったにもかかわらず、その後、例えば、アラブの春がアラブ諸国に次々に訪れ、クルド人が独立に向けて確固たる地歩を固めることができたのですからね。(太田)
3 終わりに
 スカルノもスハルトも、オランダからインドネシアを独立させたところの、日本の申し子であった点では変わりがありません。
 スカルノは、大東亜戦争における、日本の副戦争目的たる、欧米勢力からの独立を、インドネシア独立以降もとことん追求した(注3)だけのことですし、スハルトは、その基盤の上に立って、今度は、大東亜戦争における、日本の主戦争目的たる、共産主義勢力の抑止をとことん追求しただけのことですからね。
 (注3)スカルノは、「戦後も日本人の第3夫人を娶るなど西側諸国との関係が悪化した中でも日本との関係は良好であった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%8E
 だからこそ、スカルノからスハルトへの権力移譲は「平和的」に行われ、爾後、「事実上の軟禁状態におかれ」つつも、「スカルノは「国父」としての地位は保」つことができた(ウィキペディア上掲)と思うのです。
 私は、スカルノもスハルトも、大東亜戦争で日本を敗北させ、インドネシア独立を危殆に瀕せしめた米英、そして、戦後、手のひらを返したように、大東亜戦争での日本の戦争主目的たる共産主義勢力の抑止に躍起となった米英、を心底から軽蔑していたに違いない、と推察しています。