太田述正コラム#6340(2013.7.20)
<日支戦争をどう見るか(その1)>(2013.11.4公開)
1 始めに
 英国で上梓されたばかりのラナ・ミター(Rana Mitter)の『支那の日本との戦争 1937~45年–生存のための闘争(China’s War with Japan, 1937-1945: The Struggle for Survival)』のさわりを書評類をもとにご紹介し、私のコメントを付そうと思います。
A:http://www.ft.com/intl/cms/s/2/6571abfc-e2fa-11e2-bd87-00144feabdc0.html#axzz2YEfCyZsH
(書評(以下同じ)。7月6日アクセス)
B:http://www.guardian.co.uk/books/2013/jun/06/china-war-japan-rana-mitter-review
(7月9日アクセス(以下同じ))
C:http://www.economist.com/news/books-and-arts/21579797-how-struggle-against-japans-brutal-occupation-shaped-modern-china-start-history
D:http://europe.chinadaily.com.cn/epaper/2013-06/07/content_16582036.htm
E:http://www.abc.net.au/unleashed/4615756.html
 (本人による解説)
F:http://www.globaltimes.cn/content/792173.shtml#.Udvtcvk9R8E
(書評)
G:http://beforeitsnews.com/international/2013/07/china-and-japan-at-war-2461966.html
(著者のインタビュー)
H:http://www.scmp.com/comment/insight-opinion/article/1271196/war-japan-marked-china-and-remade-world
(書評(以下同じ))
I:http://www.spectator.co.uk/books/books-feature/8938411/chinas-war-with-japan-by-rana-mitter-review/kindle/manifest/
J:http://www.guardian.co.uk/books/2013/jun/30/chinas-war-with-japan-review
 なお、この本は、9月に米国で、『忘れられた同盟国:支那の第二次世界大戦 1937~45年(Forgotten Ally: China’s World War II, 1937-45)』 と題して上梓される予定です。(C)
 また、ミターは、オックスフォード大学の支那史と支那政治の教授であり(A)、その容貌(E)や名前から、インド亜大陸系の人物である、と思われます。
 彼は、近く発足する、オックスフォード大学支那センターのセンター長への就任が決まっています。(D)
 従って、この本を通じて、現在の英国における、近現代支那についての研究の水準を推し量ることができる、という意味でも、この本は注目されます。
2 日支戦争をどう見るか
 (1)典拠
 「(戦争中の大部分、支那がそこから統治されたところの、)重慶の市立文書館(Chongqing Municipal Archive)、南京の国立第二文書館(No 2 National Archive)、及び、米国の戦時中の支那における体験に係る主要史料群を持つ米メリーランド州立大学カレッジ・パーク校(University of Maryland, College Park)の米国政府の文書群、を広範に用い<てこの本は書かれた。>
 この本は、スタンフォード大学のフーヴァー研究所にある、支那の国民党の指導者であった蒋介石の日記も用いている。・・・
 <著者のミターいわく、>「最初の草稿には日本軍による残虐行為がたくさん取り上げられ過ぎていた。編集者達は、例えば七つ取り上げるよりも、そのうち二つについて詳細な形で語ることの方が言いたいことをはっきりさせる上でより良い方法だ、と私に言った<のでそうした>。」(D)
 「ミターのこの本は、この戦争に耐えた支那の人々が書いた物、及び戦時中の支那から報じた多くの興味深い外国人達からの数々の抜粋によって、生き生きとしたものになった。」(J)
→仰天したのは、(いくら彼が理の当然として英語ができ、また、支那研究者であることから漢語ができるとはいえ、)ミターが日本語の史料を一切用いていないことです。
 日支戦争が、支那における、日本の勢力と蒋介石政権並びに中国共産党との戦いであったというのに、当事者の一方の側と、第三国中の一国の史料だけを用いて、バランスの取れた史書が書けるはずがないではありませんか。
 (この点を書評子の誰も批判していないことに、再度、仰天しました。)
 しかも、ロシア(語)の史料もミターは用いてしかるべきでした。
 なぜなら、日支戦争は、ロシアの対日代理戦争として始まり、ロシアの日支戦争/太平洋戦争への参戦で終わり、その論理的帰結として、戦後、ロシアの直接的代理勢力たる中国共産党がロシアの間接的代理勢力たる蒋介石政権を打倒して共産党政権が樹立されることになったからです。(太田)
 (2)日支戦争前史
 「ミター以外の歴史学者達は、工業化しつつあった欧州が古代支那と衝突したところの、1830年代における英国の砲艦群の到着を、支那の近代の夜明けである、と指摘している。
 しかし、・・・ミター氏は、支那の日本との戦争こそ、それが支那を最弱の状態にしたからより重要なのだ、と信じている。・・・
→支那に近代化の決定的契機を与えたのは日本である、という点は同感ですが、私見では、それは、第一に、(ミター自身もmentorという言葉で示唆しているところですが、)日本が明治維新後、欧米化、就中英国化による近代化を果たしたことで範例となったとともに、近代に係る単語群を漢字を用いて創作してそれを支那に伝え、また、支那人エリートに広範に日本留学を通じて近代的教育を施し、更には、支那における近代化努力に協力を惜しまなかったからであり、第二に、(ミターは全く気付いていないと思われますが、)日本が戦前から戦後にかけて、日本型政治経済体制による現代化を果たしたことで、1970年代末に始まる中共の改革開放の範例となった、からです。
 (ミターの主張とは反対ですが、)日支戦争それ自体は、日本の敗北で終わり、共産党政権が樹立されたことで、結果としては、むしろ、支那の近代化の停滞ないし後退をもたらした、と言うべきでしょう。(太田)
 しかし、これは軍事史書ではない。
 それは、支那の戦争体験、近代的支那アイデンティティの諸起源、そして21世紀においてアジアを形作る一つの<(=日中(?)(太田))>関係のルーツに関する本なのだ。 それは、アジアでの中心性を回復しようとしていた支那の実存的危機に関する本なのだ。
 それはまた、抗うことが困難なものに対する<支那の>英雄的抵抗の純粋で素朴な物語でもあるのだ。」(C)
→そうではなく、(蒋介石政権・中国共産党・ソ連・米国・英国という)「抗うことが困難なもの<(野合体(太田))>に対する」日本の「英雄的抵抗の純粋で素朴な物語」だったのです。(太田)
 「多くの支那人達は、日本の突然の近代化によって幻惑(dazzle)され、支那に対し、この範例から学ぶよう迫った。
 しかし、戦争への飢えがどんどん募った日本は、英国と米国のアジアにおける帝国主義を恐れた。
 彼らは、欧米に対する挑戦へとアジア諸民族(nations)を糾合(unite)する希望を抱いた。
 そして、それに、支那をとにもかくにも引っ張り込もうとしたのだ。」(I)
 「日本の帝国的野心群が大きくなるにつれ、支那は日本が拡大すべき明白な場所になった。
 1931年に日本は満州を占領し、良き指導者(mentor)から加害者(oppressor)に変貌(turn)した。
 <そして、>全面的侵攻は1937年に始まった。」(C)
→このくだりは、ミターと私の史観の違いでも何でもないのであって、単にミターが間違っている、と言うべきでしょう。
 日本は、英国と米国に対し、共産主義勢力抑止の観点から、日本による支那の近代化ないし脱共産主義化に向けての努力への協力、及びソ支国境沿いにおける(満州国の成立等の)対ソ緩衝地帯の設置への理解を求めたにもかかわらず、逆に、両国が妨害の挙に出たため、対ソ抑止力を維持するための止むを得ざる手段として、英米の蒋介石政権支援ルートの遮断と石油等の軍需物資の確保を目指して南進を行うこととし、その際に、「アジア諸民族<の>糾合」を初めて掲げたのですし、また、盧溝橋事件は(ソ連/中国共産党の策謀であったのか偶発的なものであったのかはともかく)日支戦争の始まりとは必ずしも言い難い、からです。
 ミターがこのような間違いを仕出かしたことについては、彼が日支戦争について、支那側と米国の言い分が書かれた史料しか用いなかったことが大きいとは思いますが、彼には、歴史学者として求められるところの、歴史を公平かつ客観的に見るという資質が決定的に欠けている、という印象を持ちます。(太田)
(続く)