太田述正コラム#6348(2013.7.24)
<日支戦争をどう見るか(その5)>(2013.11.8公開)
(6)汪兆銘
「我々は、<この本から、>殆んど注意を払われていないある人物について学ぶ。
その人物とは、ハンサムで弱弱しく、野心的にして悲愴なる汪兆銘だ。
彼は、国家指導者の座をめぐって蒋介石に挑戦して敗れ、自分の運命を日本に掛けた。
日本は彼を利用し、この戦争が終わった時の支那がどうあるべきかという彼の諸要求に対し、狡猾(guileful)にも諸譲歩を行った<(注12)>。」(I)
(注12)「汪兆銘<は、>・・・1940年には蒋介石とは別個の国民政府を南京に樹立した。・・・
政府発足後にイタリアやタイ、フランスのヴィシー政権や満州国などの枢軸国やバチカンなどが国家承認した。しかし枢軸側の一国だったドイツは、蒋介石政府軍事顧問だった・・・ファルケンハウゼンの意見を採用し、日中戦争では日本が敗北すると見ていたため、承認を躊躇し、承認したのは1941年7月になってからだった。・・・
1943年1月9日、独立政府としての実力を整えた汪兆銘政権は米英に対して宣戦を布告し、同時に日本との間に日本が中国で保持していた専管租界の返還と治外法権の撤廃に関する協定を締結した。・・・さらにイタリア政府は1月14日に自国が保持していた専管租界の返還と治外法権の撤廃を声明し、フランスのヴィシー政府は翌2月23日に自国が保持していた4ヵ所の専管租界の返還と治外法権の撤廃を声明した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%AA%E5%85%86%E9%8A%98%E6%94%BF%E6%A8%A9
同じ「1943年1月、英国と米国<も>蒋介石政権と治外法権の撤廃や租界返還についての条約を結」んだ
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/zatsu/sokai.html
との情報もあるが、日本の動きとの先後や因果関係、については不明。
→日支戦争の過程で、英米・・米国の場合は上海の共同租界のみ・・の租界が、ことごとく日本軍によって(事実上)接収下に置かれたことが租界の返還の流れを決定付けたことは間違いないのであって、それに加えて治外法権の撤廃も行った日本の誠意を「狡猾」などと貶めるミターはいかがなものかと思います。
また、ミターが、蒋介石を、棚ぼた的に、支那を国連常任理事国入りさせたことで褒め称える(後出)のであれば、棚ぼた的にせよ、租界の返還と治外法権の撤廃を実現した汪兆銘だって褒め称えなければ、片手落ちというものです。(太田)
(7)英国
「二人ともイギリスの作家であったところの、クリストファー・イシャーウッドとW・H・オーデンは、1938年にスペイン内戦<下のスペイン>から<支那に>到着した。
イシャーウッドの日記からは、ファシズムに対する闘争における欧州の進歩派の矜持が滲み出ている。
「本日、私は、オーデンと、この瞬間に、地上のどこよりも漢口にいた方が良い、という点について意見が合致した」と。
大部分の支那の人々は、日本軍の猛襲に、逃げ場がない状態で苦しんでいる。
彼らは、とりわけ、漢口だけにはいたくないと希求している<(注13)>。
(注13)武漢作戦(武漢会戦):1938年6月11日~10月27日。「徐州会戦<(前出)>後も<漢口を臨時首都としていた>蒋介石政権は日本に対し徹底抗戦を続け、事変解決へは至らなかった。この作戦は蒋介石政権の降伏を促すため、広東作戦とともに中国の要衝を攻略することを目的とし、日<支>戦争中最大規模の30万以上の兵力で行なわれた。また日本国内ではこの動員・巨額の出費のため、政府は1938年5月5日に国家総動員法を施行、同月近衛文麿内閣を改造した。・・・8月・・・<に現実の>進攻が開始され、・・・10月17日に蒋介石は漢口から撤退、10月25日には<蒋介石政府>軍は漢口市内から姿を消し・・・10月26日に<日本が>占領した。」
なお、この会戦では、ソ連空軍志願隊なるソ連軍が蒋介石政権側に立って戦っている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E6%BC%A2%E4%BD%9C%E6%88%A6
→この二人の英国人が、ソ連空軍志願隊の参戦を知っていたかどうかはともかく、国共合作なる「人民戦線」政府が防衛戦を行っている、という表面的なところだけを見て、それをもって、ファシストのフランコならぬ日本ファシズムとの戦いである、と早とちりした、といったところでしょうか。
蒋介石政権こそファシスト政権であって、話はあべこべであったというのに・・。(太田)
1億人にもなる人々(支那の人口の20%)がこの紛争の間に難民となり、1500万人を超える人々が殺された。」(C)
→日支戦争は1年前に始まったばかりだというのに、支那人の白髪三千丈的与太話を信じ込むとは、さすが、フィクション制作者の二人です。(太田)
欧米で今日では余り顧みられていないこの戦争が、当時はどのように欧米から見られていたかは対照的だ。
「<欧米の>人々は、世界ファシズムの広がり(spread)を心配しており、<日支戦争>は、スペイン内戦と同程度の関心を惹いていた。
クリストファー・イシャーウッドとW・H・オーデンは、この戦争について報告するために支那へ旅をした。
この戦争は、地域的な事柄であるとは見られていなかったのだ」とミターは言う。」(S)
→この2人が、当時、上海等にいたはずの英陸軍関係者に取材をしておれば、こんなファンタジーから少しは冷めていたに違いないのですが・・。
何度でも言いますが、フィクション制作者が、ファクトについて論じてはならないのです。(太田)
(続く)
日支戦争をどう見るか(その5)
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