太田述正コラム#6355(2013.7.28)
<2013.7.28オフ会次第(その1)>(2013.11.12公開)
1 始めに
 14:00から、「神戸市立六甲道勤労市民センター」の会議室で予定通り一次会が始まり、飛び入り参加の1名を含め、8人の読者が出席しました。
 17:30前から、神戸市中央区三宮町2丁目の「ニューミュンヘン神戸大使館」で飲み会を兼ねた2次会が、これも予定通り行われ、新たな飛び入り参加の1名を含め、6人の読者が出席しました。
 後者の飛び入り参加の読者は、「太田さんの会」という名称が登録されていなかったこともあり、1階から各階を順次上がってしらみつぶしにそれらしき席を探し回り、8階に至ってようやく私の顔を発見したとのこと。
 他に、飛び入り参加の読者で、諦めて帰った人がおれば、心からお詫び申し上げたいと思います。
 20:00から、私の宿泊先の神戸東急イン(三宮)のレストランで各種飲み物を飲みながら、3次会を2次会と同じメンバーで行い、21:15に散会しました。
 ここでの支払いは、東急とご縁があるという一人の読者が全部引き受けられました。
 先に帰られたのでお礼を申し上げることができませんでした。
 どうもありがとうございました。
 皆さんからのご要望もあり、来年も関西オフ会を実施することになりそうです。
2 ショートトーク
            –私の問題意識と日本の外交官–
 (1)私の問題意識と日本の外交官
 もう大昔になってしまいましたが、カイロ時代に、現地の小学校で外国人ばかりに取り囲まれ、否応なしに日本人である自分を自覚させられ、日本についてうまく説明ができない、という問題意識を持ったのがことの始まりです。
 アイデンティティ・クライシスとでも言いましょうかね。
 この思いは、防衛庁(当時)という戦後日本の矛盾が集約されたような役所に入ってから一層募りました。
 こんなに自分の軍を蔑ろにする国、こんなに米国に顎で使われる国って一体なんなんだ、どうして日本はそんな国になってしまったんだろう、そもそも、日本って何?・・とね。
 呆れたのは、仕事の上で接触した外務省キャリアや、防衛庁に出向してきていた外務省キャリアたる上司や部下が、基本的に私の問題意識を共有していなかったことです。
 彼らは、外国に赴いたり外国人と折衝したりするのが仕事ですし、外務省という、安全保障を防衛庁とともに担う役所に勤務しているというのに・・。
 直接上下関係に立たなかったところの、外務省キャリアの中から、具体的な例を挙げましょう。
 一人は、小和田恆(恒)(1932年~)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%92%8C%E7%94%B0%E6%81%86
です。
 言わずとしれた、雅子妃のお父上で、条約局長、外務事務次官、国連大使を歴任し、現在、国際司法裁判所判事をやっている人物です。
 彼については、コラム#2374、2960、3043、4261で取り上げているのでそちらをご覧ください。
 彼は、全くこのような私をインスパイアするものを持っていない人物でした。
 次は田中均(1947年~)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E5%9D%87
です。
 北米局審議官、アジア大洋州局長、外務審議官を歴任した人物です。
 彼については、コラム#45、63、85、86、1413、6265、6289で取り上げているのでそちらをご覧ください。
 彼は、米国の買弁としか形容のできない人物です。
 米国の、というより米国務省のスポークスマンとして、「民度の低い」日本における、他官庁の役人や民間人に高圧的に臨むという・・。
 そして、この田中と外務省同期の(田中と同じ京大法だが一学年若い)天木直人(1947年~)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%9C%A8%E7%9B%B4%E4%BA%BA (←米オベリン大学英語研修とだけあるが、英語習得に専念し、学業は放棄したか?)
です。
 駐レバノン大使の時に外務省をクビになったと自称している人物です。
 彼については、コラム#940でちょっと取り上げているのでそちらをご覧ください。(読者が投稿の中で彼に言及している事例はかなりあるのですが、省略します。)
 彼は、外交官としての基本的資質に欠けているのではないか、と私が感じている人物です。
 そう言えば、つい最近も(コラム#6265で)、無責任を絵に描いたようなプロ野球コミッショナーの(元駐米大使の)加藤良三
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E8%89%AF%E4%B8%89
について取り上げたこともありましたね。
 加藤には会ったことはありませんが・・。
 もう一人あげておきましょう。
 故大川美雄(1922~2008年)
http://www.jnpc.or.jp/activities/news/report/1977/11/r00019172/
http://spysee.jp/%E5%A4%A7%E5%B7%9D%E7%BE%8E%E9%9B%84/5592649
です。
 彼は、国連局長、軍縮委員会日本代表部大使、駐フィリピン大使、駐カナダ大使等を歴任した人物です。
 私が1980年と1981年に合計4回、ニューヨークとジュネーヴの国連信頼醸成措置政府専門家会合に出席したところ、軍縮委員会日本代表部(在ジュネーヴ)のサポートを受けた関係で、同代表部主催のレセプションに何回か出たことがあります。
 レマン湖畔の同代表部大使公邸でのレセプションの際、突然、彼が、私に、空を飛ぶ小型機を指さしながら、あの機種は何かと聞くのです。
 (ジュネーヴは、三方をフランスに囲まれており、ジュネーヴ空港自体、スイスとフランスにまたがっています。上空を飛んでいるのがスイスの小型機とは限りません。)
 私が分からないと答えると、そんなことも分からないのか、という顔をされました。
 さて、その頃、同代表部には、防衛庁(当時)から誰も出向しておらず・・信じられないでしょう!・・、いくらなんでもそれではおかしい、というので外務・防衛両省庁が話し合って、防衛庁から一人出向することになったのです。
 そして、私に白羽の矢が立ちました。
 そこで、翌年、再び大川大使に会った際に、自分が出向することになったのでよろしくお願いします、と彼に伝えた・・これは内示もない段階ではフライング、ルール違反でした。若気の至りって奴です・・ところ、そんな話は聞いていない、とそっぽを向かれてしまいました。
 後で知ったのですが、同大使は、制服自衛官の出向ならいいが、文官ならいらない、という姿勢だったのですね。
 自衛官なら軍事知識があるのでまだ役に立つ部分があるけれど、防衛庁の文官など何の役にも立たないじゃないか、というわけです。
 結局、私はジュネーヴには赴任できず・・代わりに自衛官が赴任した・・、おかげで、私としては、数年後に英国国防省の大学校に留学できて、よかったのですが・・。
 今にして思えば、外務省の省益を守るために、戦後日本を、「自分の軍を蔑ろにする国、こんなに米国に顎で使われる国」にしたことについての主犯こそ、当時の吉田茂以下の外務省元/現役キャリア達だったのであり、そんな彼らの後輩が、このような戦後日本のあり方に疑問を抱いたり、正そうとしたりしないのは当たり前だし、日本とは何ぞやということについて思い煩うこともなく、また、防衛官僚の私にこういう態度を取るのも、当然のことだったのです。
 (2)私が自分の問題意識を巡って最近考えていること
 ところで、私が冒頭に述べたところの、日本についてうまく説明ができない、というのは、こういうことです。
 アラブやイギリスや欧州、そして米国、更には中南米やロシア、インド、そしてもちろん支那、等については、それなりに自分でも納得できる説明ができそうなのだが、日本については説明ができるようになる自信がない、と。
 これは、太田コラムを書き始めてからも、基本的に変わっていません。
 そりゃ、単に、日本以外についてはお前が詳しくないからこそ、分かりそうに思った、というだけであって、要は、お前、あらゆる国や地域について分かってないってことじゃないの、と切り返されそうですが、やはり、日本って飛び切り複雑なんだ、と私は強調したいのです。
 しかし、最近になって、ようやく日本についても分かりかけてきたように思うのです。
 そして、そのおかげで、支那や米国についても、一層理解が深まってきたように思うのです。
(続く)