太田述正コラム#6393(2013.8.16)
<日支戦争をどう見るか(その26)>(2013.12.1公開)
(3)蒋介石政権
馬暁華(Ma Xiaohua)<(注47)>が、「20世紀におけるアメリカの「中国体験」―歴史の記憶と挫折のなかの模索―」(現代中国研究第18号 20~45頁 2006年)の中で、キリスト教(プロテスタンティズム)を通じて蒋介石政権とローズベルト政権が結ばれていった経緯をまとめているところ、過去の太田コラムで記述済みの話も多いけれど、復習を兼ねてそのさわりをご紹介しましょう。
(注47)当時も現在も大阪教育大学准教授。お茶の水女子大学修士・博士。
http://kenkyu-web.bur.osaka-kyoiku.ac.jp/Profiles/3/0000254/profile.html
著書・発表論文一覧
http://kenkyu-web.bur.osaka-kyoiku.ac.jp/Profiles/3/0000254/books1.html
「・・・19世紀を通して,アメリカ<(ママ。以下同じ)>の海外伝道の歴史は海外膨張主義の産物であり,国家の領土拡大と商業の冒険主義のきっかけでもあった。1890年代にアメリカ国内のフロンティアが終わりを告げると,宣教師たちは海外に目を向け,アメリカの海外伝道は新しい幕開けを迎えた。それに続く20 年間,アメリカの海外伝道は世界の福音伝道の先導となった。同じ時期に中国<(ママ。以下同じ)>はアメリカ伝道界ではもっとも将来性のある国だと思われるようになってきた。1880年代まではアメリカ伝道の関心としては,近東が極東に勝っていた。1890年にインドはイギリスとアメリカ両方の伝道の興味を引き付けていたが,90年代以降,アメリカの海外伝道は中国が宣教師の人数ではインドに勝り,予算では近東に勝っていた・・・
→アジアで、スペイン/ポルトガルの海外膨張主義の一環としてカトリック教会が日本に重点志向をして16世紀央に宣教活動を始めた
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A3%E6%95%99%E5%B8%AB
のに対し、米国の海外膨張主義の一環としてプロテスタント諸教会が支那に重点志向をして19世紀末に宣教活動を始めたわけです。(太田)
アメリカの中国人に対する初期の伝道の姿勢は非常に急進的で,帝国主義的であった。つまり,異教徒の文化に対して大いなる軽蔑に彩られ,アメリカの文明が優れているという確信が誇張されていた。このような態度が19世紀伝道政策を形作り,対中イメージに影響を与えてきた。アメリカ人の中国に対する軽蔑は「異教徒中国人」という一般的な宣教師のイメージからきていた。それは後に中国人移民排斥運動に結び付き,1882年の排華移民法につながるものであった・・・
その後,20世紀初頭,中国の社会的・政治的な変革が新しい形の伝道をもたらすことになった。この時期は何千人という宣教師が中国にやってきて,中国における伝道の黄金期でもあった。当時30近くのキリスト教宗派が宣教師を中国に送り込んでおり,そのため,中国で伝道していたプロテスタント宣教師の半分以上,2500人に及ぶ人数がアメリカ人によって占められていた。宗教的な情熱をもつ人々は後にアメリカの中国観に道徳的色彩を強め,苦しむ中国に同情する立場を支えた。こうした積極的な「福音」伝道活動はアメリカ文化の優位性を前提としており,自分の優れた技術や文明を中国人に伝え,中国の近代化を促進し,米中関係の緊密化を増やしていこうという考えであった。
→最初、米国人は支那人を軽蔑し切っていた、ということです。(太田)
加えて,宣教師だけでなく,多くのビジネスマン,外交官,新聞記者,学者,教育者も中国にやってきて,1930年代の一番多い時期には,1万3000人のアメリカ人が中国にいた。それによって,アメリカ人の中国に対する感情は新しい局面を迎え,・・・第二次世界大戦以前に中国で生活した<このような>「中国通」と呼ばれた人物は中国人に対する自国でのアメリカ人の対中認識を変えるために働きはじめた。・・・
19世紀末ジョン・ヘイ(John M. Hay)<(コラム#2880、3670、4464)>の2度の「門戸開放」声明が象徴したように,アメリカは経済的利益に立って通商上の機会均等を強く求めただけでない。帝国主義が中国分割を欲しいままにする諸列強に対して,中国へ庇護の手を差し伸べ,暗黒の世界に正義のたいまつを高く挙げるアメリカという自己イメージを楽しんでいた。同時に,アメリカ人はアメリカの民主主義理念が民族や国境を越えた普遍的なものにならなければならないと信じ,世界をアメリカのイメージに沿ったものに作り変えようとした。その中でもっとも重要な人物の一人は,ヘンリー・ルース(Henry R. Luce)<(コラム#2934、3074、4092、4112、4150、4266、6208)>であった。
ルースは1898年4月3日,中国青島で長老派宣教師の家庭に生まれ,14歳まで中国で生活していた。・・・
1927年から31年の間にわたり3つの重要な出来事が起こった。第一は,1925年の孫文死後,蒋介石が反共体制の確立に成功し,中国の指導者になった一方,敬虔なクリスチャンの宋美齢と結婚することで自分もクリスチャンになったことである。第二は,1931 年にパール・バック(Pearl S. Buck)<(コラム#1174、2651、2828、2830、3074、3161、3932、3934、3936、3938、3965、4051、4112、4146、4150、4462、4492、4656、4726)>の『大地』(Good Earth)が出版されたことである。バックの作品に登場してくる中国人の小作人は高潔で,忍耐強く生まれながらに現実を直視し,厳しい自然と絶えず闘っており,その姿がアメリカ人の心の奥深くに届いた。第三は,1931年9月18日の日本の満州侵略である。最初日本の中国侵略にはすぐにアメリカの反応があったわけではなかった。それにもかかわらず,蒋介石のキリスト教信仰とバックの作品のイメージが,アメリカ人が後にアメリカ人の新しい中国像を形成するうえでの基盤となった。
その時代を通して,ルースのタイム社は蒋介石の国民政府を支持し,共産党を排除しようとする努力を称え続けた。・・・
張学良<(コラム#189、290、292、745、3314、4004、4010、4504、4612、4679、4685、4722、4950、4962、5048、5052、5055)>将軍が蒋介石を1936年のクリスマスの日に釈放したことはルースにとって,大きな意味があった。後に蒋介石は西安で軟禁されている間,彼のキリスト教信仰がどのように自分を支えたかを公に話し,何度も強い信仰心のことをあげ,「十字架にかけられたキリストの精神で中国人のために最後の犠牲となる覚悟ができていた」と表明した・・・。このように蒋介石は,海外の支援を得るために,自らキリスト教を誇示することが政治的利用価値をもつことを素早く見てとった。これは本当に行動の規範となる内面の思想よりも,公共の場でのパフォーマンスに気を配ったものであると見られる。だが,蒋介石のこの言葉は海外でも多くの支持者を作り,彼らは中国がキリスト教の信仰で精神的に生まれ変わるだろうと信じた。・・・
→支那かぶれのおめでたい米国人達の「尽力」に加えて蒋介石のパフォーマンスもあって、米国人の支那人観は好意的な方向へ180度転換するわけですが、既にお馴染みなったところの、米国人の極端から極端へのぶれがここでも見られます。(太田)
蒋介石の巨大な肖像や写真は『タイム』誌の表紙として6回以上使われたが,このことは『タイム』誌史上前例のないものであった。・・・
蒋介石が中国,極東,さらに20世紀のアジアの「もっとも偉大な人物」となっていく・・・
蒋介石夫人宋美齢の巨大な写真<も>同誌の表紙として選<ばれたことがある。>・・・
宋美齢は1942年11月にアメリカに着き,翌年5月まで滞在した。夫と中華民国政府を代表して,1943年2月上旬,彼女はホワイト・ハウスを訪問し,17日にローズヴェルト大統領と会談を行い,アメリカの対中援助の強化を求めた・・・。会談後,ローズヴェルトは「世界でもっとも特別な特使」である宋美齢とともに,記者会見を行い,「もしアメリカ人が蒋介石夫人のアメリカに対する理解の半分でも中国を理解できれば,じつに喜ばしいことであろう」と語り,中国を全力で支援することを内外に宣言した・・・。
翌日,蒋介石夫人は上下両議会に招待され,上院で行われたスピーチの中で,自分自身を中国人とアメリカ人の間の深いつながりの例としてあげ,「私はあなた方の言語を話しています。それはあなた方の口から出る言葉だけでなく,あなた方の心からの言葉でもあるのです」と強調し,「今日ここに来て私はまるで家に帰ってきているように感じます」と語った・・・。
中国人とアメリカ人の類似性を多く強調して,彼女は,「両国の間の160年にわたる伝統的な友情関係は誤解によって損なわれることはなく,世界史の中で消えることはできない」という米中両国の親密な同盟関係を訴え,「中国はあなた方と熱意をもって協力し,近隣の略奪者たちが再び人類を血塗られた運命に導かないよう,より理想的かつ進歩的な平和世界のための礎を築くことに尽くさなければなりません」とアメリカ社会に伝え,「それは我々自身のみのためだけでなく,全ての人類のためです」と宣言した・・・。
そのスピーチは大きな成功だった。上院も下院も,優雅で,チャーミングで知的な中国のファースト・レディーに心を奪われ,驚いた。・・・
アメリカ人の目には,中国人はキリスト教の信仰と民主主義のイデオロギーを,特にキリスト教徒蒋介石の指導のもとで,喜んで受け入れようとしているように映った。蒋介石のアメリカでの一般的なイメージは,中国人をアメリカ的スタイルの未来に導く勇敢な,英雄的なキリスト教信者というものになっていたのである。・・・」
http://modernchina.rwx.jp/magazine/18/ma.pdf
(7月18日アクセス)
→更に、宋美齢のパフォーマンスもあって、完全に蒋介石政権及び支那人に心酔した愚か極まる米国の指導層でしたが、支那人観の方は基本的に変わらなかったものの、その後、ローズベルト政権の蒋介石ないし蒋介石政権に対する評価は急速に下降し、トルーマン政権は、ついに腐敗、無能、のレッテルを貼り、中国共産党支持に切り替えるという、米国の対支那政策の大転換が行われることになります。(太田)
さて、一体どちらの蒋介石/蒋介石政権観が正しかったのかは後で検証するとして、果たして蒋介石は敬虔なキリスト教徒であったのかどうかを先に検証しましょう。
蒋介石のキリスト教との関わりで日本人に強烈な印象を残しているのは、終戦の日の彼の演説です。
「昭和20年8月14日(日本時間8月15日)・・・蒋介石総統は奥さんの宋美麗夫人と共に祈って布告を出しました。そして中国全土、並びに全世界に向けてラジオで放送しました。・・・
「・・・正義は必ず独裁に勝つという真理は現実となった。・・・
私共は言い表せない様な残虐と屈辱を受けたけれども、決してその賠償や戦果は問うまい。「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」「あなたの敵を愛しなさい」と命じられた、キリストの教訓を思い出して誠に感慨無量である。中国の同胞よ、「既往をとがめず、徳を以って怨みに報いる」ことこそ中国文化の貴重な精神文化であると肝に銘じて欲しい。
私共はただ侵略をこととする日本軍閥のみを敵とし、日本人民を敵としないと言ってきた。決して報復したり、侮辱を加えてはならない。」
http://www.okamura-hp.or.jp/ayumi/ayumi45.html
(7月18日アクセス)
この演説を含め、蒋介石の、終戦前後の、まるでイエスばりの、仇敵に対して愛で応えたかのような言動については、以下のような辛辣な見方をする人が日本では多数を占めています。
「これは当時中国に駐留する日本軍が強力で、戦争中の国民政府軍が兵力は日本軍を上回っていたにもかかわらず連戦連敗であったため、なるべく刺激せずに穏便に撤退させたかったというのが真相のようである。・・・
終戦時に中国大陸にいた日本人の数は、軍人120万人、民間人80~90万人で、復員・引揚には数年を要すると言われていたが、蒋介石の便宜により10ヶ月で復員・引揚を完了させている。しかし、BC級戦犯として、多くの日本軍人を処刑したのも蒋介石の率いる中国国民党政府であった。
カイロ会談では、中華民国は日本に進駐する考えのないことを表し連合国側の占領政策を変えさせた結果、ソ連の北海道進駐を阻止する重大な起点になった。もっとも、蒋介石は、戦後の国共内戦の勃発を予想しており、兵力を日本占領に割くことをためらっていたという説もある。兵力の不足は、台湾の占領が漸く10月になってからであったことや、陳儀長官と共に台湾へ渡った中国軍のレベルが低かったことなどからも十分想像できる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%8B%E4%BB%8B%E7%9F%B3
確かに、「<1927年にメソジストの宋美齢と結婚した>蒋介石は<41歳になってから、>・・・1929年に上海のメソジスト教会で<結婚の条件の一つであったところの、>洗礼を受け、キリスト教徒となった」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8B%E7%BE%8E%E9%BD%A2
のですから、蒋にとってキリスト教など付け刃に過ぎなかった、と見るのが常識的ではあるでしょう。
しかし、話はそう簡単ではないのです。
(続く)
日支戦争をどう見るか(その26)
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