太田述正コラム#6413(2013.8.26)
<日支戦争をどう見るか(その35)>(2013.12.11公開)
 (2)フライングタイガース前史
 読者のFat Tailさんが教えてくれた、1999年の下掲の論考(米航空医学者執筆)↓から、そのさわりをご紹介しましょう。
http://www.airforcemag.com/MagazineArchive/Documents/1999/June%201999/0699before.pdf
 「1932年7月、支那の航空学校に最初の米国人軍事指導操縦士達が到着した。
 彼らは、ジョン・H・ジュエット(John H. Jouett)によって率いられていたところ、彼は、予算削減の結果、米陸軍航空軍団から去らざるをえなかったものだ。
 支那側は、ジュエットに大佐の階級を与えた。
 彼は、他の、除隊させられた操縦士達と共に到着したが、彼らは全員米軍の予備役としての階級を持っていた。
 彼らは一人一人、中国空軍との契約を秘密にしておくよう注意を受けた。
 日本がこのことに気付かないようにするための空しい試みの一環として・・。
 この一団は、<米国人整備員等も集めたが、こうして、>・・・約30名の米国人操縦士が当時の支那に滞在することとなった。
 ジュエットは・・・<航空学校では、>全ての指示が英語でなされなければならないことを執拗に主張し、マニュアル<類>も彼が米国から持参したものが使われた。・・・
 ジュエットは、毎年、100人の支那人生徒を育て上げた。
 契約は1935年までであり、その時点で彼は米国に戻った。・・・
 支那の政治家や軍事指導者は、時々米国人に「秘密業務(assignment)」を与えることがあった。
 その中には、この操縦士達が、そのために雇われた軍事的任務(task)から、遠くはずれたものもあった。
 <ただ、>その大部分は、米中立法(Neutrality Act)違反には該当せず、従って、米国に法的な諸危険を生ぜしめるものではなかった。
 当時の米国における孤立主義的感情は極めて強かったので、国民党(であれ、いかなる<支那の>交戦者であれ、そ)のために戦争行為に従事したことが露見した場合、いかなる操縦士でも、米国市民権を剥奪されたことだろう。
 しかし、極東における軍事状況が悪化すると、中立法の諸規定が厳格に執行されることははるかに少なくなった。
 1941年4月に、フランクリン・D・ローズベルト大統領は、行政命令を発出し、軍事操縦士達が、一年間、外国で空を飛び、戦うことを認めた。
 ・・・米国人操縦士のトマス・テイラー(Thomas Taylor)は・・・、三度、コンドル(Condor)機に爆弾等を搭載して、<国民党が>延安に追い詰めていた共産党と戦っている国民党諸部隊に補給して欲しい、との打診を受けた。
 テイラーは、中立法があるから、といつもそれを拒否した・・・。
 最終的に、顔を突き合わせた会合で、彼は宋美齢から執拗に頼まれた・・・。
 共産党は、彼が爆弾と弾薬を、そこにいる中国空軍諸部隊に空輸しなければ、間違いなく、当該地域から逃れられなくなっている米国人宣教師達の首を刎ねることだろう、と。
 テイラーは、共産党が他の宣教師たちの首を刎ねたことを知っていたので、<ついに>屈した。・・・
→毛沢東がいかに激しくキリスト教を弾圧していたか、よく分かりますね。
 繰り返しますが、後に米国は、キリスト教徒たる蒋介石夫妻率いる国民党を切り捨てて、こんな毛沢東率いる共産党に支那を献上することになります。(太田)
 <この時期に>中国空軍に米国製の航空機が大量に導入されたのは、1936年の蒋介石の50歳の誕生日を祝う資金集め(fund drive)の賜物だった。
 この資金集めでは100万ドル近くが集まり、その一部分が、南京に配備される10機のボーイングP-26A購入に用いられた。・・・
 1937年7月7日に日支戦争が本格的に始まった。・・・
 <こうして>公式の交戦が勃発すると、支那の報道機関は、100名を超えるやり手の米国人操縦士達の到着と第14志願爆撃航空隊(14th Volunteer Bombardment Squadron)の創設を予告した。
→報道されたにもかかわらず、当時の日本政府が、この操縦士達中に間違いなくいたはずの米軍の予備役軍人達を突き止めた上で、米国に抗議した形跡がないのは、理解に苦しみます。(太田)
 その2か月前にクレア・L・シェンノート(Claire L. Chennault)<(注67)>が、国民党の航空顧問として支那に登場していた。
 (注67)Claire Lee Chennault(1893~1958年)。フランス系米国人。[ルイジアナ州立大卒。最終階級は米中将。]「1926年に・・・<彼が>初等飛行訓練の責任者<であった時、>空挺作戦について研究をした。これがソビエト連邦の・・・軍事使節団の目にとまり、シェンノートをソビエト陸軍の教官として採用したいと望まれた。シェンノートは乗り気ではなく、婉曲に断ろうと採用条件として必要経費とは別に月給$1,000と大佐の階級を要求するが、ソビエト陸軍側はこれを快諾した<ものの、>結局ソビエト陸軍の誘い<を>断<っている。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88
http://en.wikipedia.org/wiki/Claire_Lee_Chennault ([]内)
 この挿話からだけでも、当時の米ソの蜜月ぶりが彷彿としてくる。
 なお、1942年にスティルウェルが彼の上官として支那に派遣されると確執が生じ、蒋介石にスティルウェルの更迭を働きかけ、1944年になってようやくそれに成功した。(英語ウィキぺディア上掲)
 米陸軍航空軍団(The US Army Air Corps)は、・・・彼を航空軍団曲芸展示チームの司令にしていた。
 しかし、1937年初頭、<[除隊した(英語ウィキペディア上掲)]シェンノート<に対して>・・・仲介者を通じて<[蒋介石政権の航空委員会(Aeronautical Commission)を所管していた(英語ウィキペディア上掲)]宋美齢から誘いがあり、>・・・1937年5月末に支那に到着した。
 彼は、支那に8年間滞在した。
 最初は、1937~41年の間、国民党の航空顧問(そして事実上の空軍参謀長)として仕えた。
 その間、彼は、第14志願爆撃航空隊を編成し、1941~42年には、有名なフライングタイガースを編成した。
 彼は、支那勤務を、米第14空軍の中将たる司令官として終えた。
 ・・・1937年の秋に編成された第14志願爆撃航空隊・・何人かの筋は、最初の国際的航空隊としてこの部隊に言及している・・は、支那における、最初の、大部分が米国人からなる志願戦闘集団だった。
 シェンノート<のこの部隊>の操縦士の名簿は、・・・12名を超えたことは一度もなかった。
 <この部隊>は、1938年には、漢口(Hankow)に、ソ連の大きな派遣部隊と一緒に駐屯していた。
 <このソ連の部隊は>・・・120機を超える航空機からなり、支那での空戦で大きな役割を果たしたが、日本軍のモンゴル国境への侵入(incursion)や欧州での交戦の勃発に対処するために撤退した。
→この部隊はソ連の正規軍であり、その攻撃を受けていた以上、この時点までに、日本はソ連に宣戦布告する権利を取得するに至っていた、ということです。
 にもかかわらず、日本がソ連に抗議すらしなかった理由は不明です。(太田)
 第14志願爆撃航空隊の戦闘の歴史は短かったけれど、<日本軍との戦闘に関して、>それは激しいものだった(intense)。・・・
 <この部隊は、>1938年3月に解散し、なくなったけれど、<シェンノート自身と>その何名かの操縦士は支那で引き続き軍務に就いた。
 ・・・<例えば、>1938年4月29日には、シェンノートは、ソ連の航空機や操縦士とともに、日本<の航空部隊と戦っている。>
→シェンノート自身は、(英語ウィキぺディア上掲を読む限り)米予備役軍人ではなかったようですが、第14志願爆撃航空隊の中にはもちろん、その後支那に残った米操縦士の中にも米予備役軍人がいたと思われ、この時点で日本軍がこれらの事実を掴んでいたとすれば、その事実を突きつけ、米国に抗議するとともに、(米中立法違反を犯した)米操縦士達の本国召還と米国の蒋介石政権支援の中止を求めることができた、と考えられます。
 また、これは、注67でも記したような、戦間期における米ソの蜜月時代を示す、もう一つの挿話であると言えます。
 いや、蜜月時代どころか、この時点で、既に、日支戦争中の蒋介石政権を支援しつつ、米ソは、手を組んで、日本と戦っていた、と言えるでしょう。(太田)
 1941年春には、この初期の戦士達が後輩に引き継ぐ時が来た。
 後に「フライングタイガース」<(注68)として知られることになる米志願集団(The American Volunteer)が編成されつつあったのだ。」
 (注68)1941年初頭、フライングタイガースのためのカーチスP-40機群は、武器貸与法に基づいて支那に送られることとなった。そして、約300人の米国人操縦士と地上要員は、観光客として現地入りした。
 フライングタイガースは、米国の指揮の下、機体には蒋介石政権のマークをつけ、操縦士は蒋介石政権の制服を着用して、日本軍と交戦し、日本の都市の爆撃まで行う、という計画だった。
 米軍部はこれに反対し続けたが、蒋介石政権に資金提供をしていたところの、財務長官のヘンリー・モーゲンソー(Henry Morganthau)と、何と言っても、ローズベルト大統領自身が反対を押し切って許可した。
 ところが、この計画が実行に移される寸前に真珠湾攻撃が行われた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Claire_Lee_Chennault 上掲
→(欺騙工作を含め、)二重に国際法違反のフライングタイガース部隊を編成した時点で、米国は日本に開戦していた、と断定できることを、改めて強調しておきましょう。(太田)
(続く)