太田述正コラム#6415(2013.8.27)
<日支戦争をどう見るか(その36)>(2013.12.12公開)
(3)日本兵の蛮行
 –始めに–
 日支戦争/太平洋戦争の大義がひょっとして日本側にあったのではないか、という潜在意識が英米の指導層の中にあるためか、いつも指摘されてきたのが、日本兵の蛮行です。
 –個々の兵士による蛮行(強姦・捕虜殺傷・戦死者冒涜等)–
 以前、(コラム#879で)、オックスフォード大歴史学講師のドレイトン(Richard Drayton)による、以下のような事実の指摘を紹介しました。
 「1942年から45年にかけて欧州戦域で米軍兵士が行った強姦が少なくとも1万件以上に達する・・・。・・・<また、米兵>は<日本兵の>捕虜を冷血にも射殺したり、野戦病院で皆殺しにしたり、救命ボートを機銃掃射したり、<日本人の>一般市民を殺したり虐待したり、負傷している敵にトドメを刺したり、まだ生きている者を死んだ者と一緒に穴に投げ込んだり、太平洋では敵の頭を煮て肉を落としてテーブル飾りをつくったりした・・・。」
 そして、(コラム#6201で)、「米軍兵士の先の大戦の時の欧州戦線での行状<だが、>・・・1944年に敵前逃亡率が最大に。掠奪・破壊・強姦のやり放題。そのために進撃が遅れた。・・・イタリアではイタリア兵捕虜達を虐殺したが殆んど罰せられず、ノルマンディー上陸作戦では、ドイツ兵狙撃手捕虜は処刑するようブラッドレーとパットン両将軍が命令を発した。」と記したところです。
 この際、アーロン・ウィリアム・ムアー(Aaron William Moore)の新著、『戦争を記す–日本帝国の兵士達の記録(Writing War: Soldiers Record the Japanese Empire)』(の書評)で、以上を更に補っておきましょう。
 「英マンチェスター大学の東アジア史講師の・・・ムアーの本は、<日本兵>怪物・・・神話と対決している。
 <この本>の中で、ムアーは、当時詳細な日記を書いた200人を超える日本人、支那人、及び米国人の兵士達の眼を通じて、アジアと太平洋における第二次世界大戦を検証する。・・・
 日本兵達は、多くの欧米人がいまだに信じているような「洗脳されたロボット」では全くなく、相手方たる支那兵や米兵同様の多様性を持った思考と行動の自由を表示していたことを示す。・・・
 同様、日本兵だけが残虐(cruel)であったという観念についても、神話であることが明らかにされる。
 ムアーは、米兵が、細部まで日本兵と同じ暴虐性でもって活動する何ダースもの事例を列挙する。
 例えば、捕虜をめった切り(hack)にして殺す、首を切り落とす、乾燥させた日本兵の耳や指を戦闘の身の毛のよだつ記念品としてとっておく、だ。
 ムアーは露骨に、「この点に関して、米兵は、東アジアにおいて、その相手方と違いはなかった」と陳述する。
 実際、日本兵の伝説的な降伏の拒否は、大部分、特定の狂信(fanaticism)によるものと言うよりは、米兵によって拷問されることを恐れたためだった、と。」
http://www.ft.com/intl/cms/s/3/d6be0754-f521-11e2-b4f8-00144feabdc0.html#axzz2asbwZZps
(8月3日アクセス)
 要するに、蛮行に関しては、日本兵だろうが米兵だろうが、何兵だろうが、みんな同じだった、と断定してよいでしょう。
 この限りにおいて、話は終わりです。
 (この書評の範囲では強姦が出てきませんが、強姦についても日本兵と米兵(と支那兵)との間に差異はなかったはずです。
 なお、「乾燥させた日本兵の耳や指を戦闘の身の毛のよだつ記念品としてとっておく」行為は、日本兵には見られませんでした。恐らく、その理由は、米兵側に日本兵への人種差別意識があったのに対し、日本兵側には米兵への人種差別意識がなかったからでしょうが、この点には立ち入りません。)
 –残された問題–
 しかし、考えるべき点が3つ残っている、と私は思います。
 第1点は、個々の日本兵によるものではないところの、日本軍による、組織的な捕虜殺害(の強い可能性)、及び組織的な捕虜虐待とされていること、をどう考えるか、です。
 第2点は、以上のような蛮行を個人として、或いは組織として行った日本兵中、PTSDを発症した者が殆んどいないのに、米兵中には多く見られることをどう考えるか、です。
 第3点は、そもそも、大部分が人間主義者であったはずの日本兵が、個人として蛮行を行ったり、或いは組織の一員として蛮行を行った際に抵抗感がなかったことをどう考えるか、です。
 最後の第3点から行きますが、これは、余りにも簡単なことであるにもかかわらず、つい先だってひらめく(コラム#6402)まで、解答が思い当らなかったものです。
 要するに、大部分が人間主義者である日本人の中で、既に縄文モードに入っていたところの当時の平和な日本社会で生きてきた、基本的に縄文人たる徴兵された日本人にとっては、戦闘で人を殺すこと自体が、身の毛のよだつ行為であって、彼らは、そんな行為をやらなければならないという教育訓練を受け、自らも清水の舞台から飛び降りるような意識改革を行って、ようやく兵士として使い物になったわけです。
 (彼らは、銃文化の根付いた暴力的な社会である米国で生きてきた米兵や、支那で、1840~42年の阿片戦争や1850~64年の太平天国の乱以降、1世紀近く続いてきた戦乱の中で生きてきた支那兵とは全く違う、と言うべきでしょう。)
 そして、こうして清水の舞台から飛び降りた以上は、戦闘で人を殺すのも、捕虜を個人的に、あるいは組織の一員として上官から命ぜられて殺すのも、彼らにとって、大差はなかった、と考えられるのです。
 (日本兵に対する捕虜取扱いに関する国際法教育が不十分であったことも忘れてはなりませんが、南京入城後に行われた可能性の高い、捕虜全員の殺害という明明白白な国際法違反行為について、これまで誰も明確に証言した旧日本兵がいなかったことは、日本兵が国際法についてある程度知っていたからこそ、このことを秘匿してきたことを、むしろ推測させます。
 なお、支那における日本兵による強姦の頻発は、日本における夜這い文化との関係を以前(コラム#6322で)指摘したところです。)
 第2点については、蛮行とは縁のなかった者を含め、元米兵にはやたら多いのに、元日本兵にどうしてPTSD発症者が殆んどいないのか、私の仮説を以前(「太平洋戦争における米兵のPTSD」シリーズ(コラム#6104以下)で)記したので、ここでは省略します。
 そして、第1点は、すなわち、「シンガポールで5万人の英軍と豪軍、ジャワで5万2,000人の蘭軍と英軍、フィリピンで2万5,000人の米軍、計13万2,142人が戦争初期に日本軍の捕虜になりました。その大部分はその後3年半にわたって収容所生活を送ったのですが、うち実に27%がその間に死亡しました。これに対し、ナチスドイツ軍の捕虜になった英軍と米軍の死亡率は4%にとどまっています。」(コラム#805)という事実をどう考えるか、ということです。
これに関しては、以前(コラム#1436で)、「ナチスドイツ軍は、英米軍の捕虜のうち将校には労働を免除したが、ジュネーブ条約にそんなことが書いてあったわけではない<ところ、>・・・日本軍は将校にも労働させ<た>・・・。・・・<また、例えば、>先の大戦中、日本軍はタイとビルマを結ぶ兵站路を確保するため、密林山岳地帯に415kmの鉄道を建設した。工事には日本軍鉄道隊1万5,000人と連合国白人捕虜30,000人、東南アジアの労働者10万人(徴用したわけではない)が動員された。・・・<そして、>連合国捕虜約6,000人、現地人労働者多数が死亡した。しかし、日本軍兵士も約1,000人死亡しており、死亡率にして約0.7割であるのに対し、捕虜の死亡率は約2割と多いことは多いが、(シベリア抑留の際に抑留者を監督したソ連軍から死者がほとんど出ていないことに鑑みても、)これだけで虐待と言えるかどうかは疑問だ。日本軍は、捕虜をできるだけ自分達と同等に処遇したものの、食事の内容や量が日本人に比べて体格の良い捕虜にとっては不足であったのだろうし、日本人に比べて白人は高温多湿の環境への耐性がなかったのだろう。<ちなみに、>戦後、日本軍兵士約5,700人がBC級戦犯として摘発され、うち約4,800人が裁判にかけられ、900人以上が死刑に処せられ<ている。>」、また、(コラム#1433で、)「捕虜収容所では物理的制裁が日常茶飯事だった・・・<が>、私的制裁は、日本軍、とりわけ日本陸軍内部では日常的に行われており、捕虜への私的制裁は、このような日本軍内部での恥ずべき慣行の反映にほかならないのであって、ことさら捕虜を虐待したわけではない。」と記したところです。
(続く)