太田述正コラム#6431(2013.9.4)
<日支戦争をどう見るか(その42)>(2013.12.20公開)
「<1958年から始まる大躍進政策より前の>死亡者数の正確な数字についての公式に明らかにされたもの(その弁護者達によって、処刑された者の総数ではなくて起訴され<て処刑され>た者の数であると解釈されているもの)は、80万人ないし200万人とされている。
<これに対し、ディコッター>の研究は、解放<(=中共建国(太田))>に起因する死の総数は500万人であることを示唆している。
処刑された者の貧窮した家族の中から出た、報告されない死を勘定に入れれば、これはありうる数字だ。」(α)
「しかし、問題は、<中共当局が、>この虐殺(slaughter)を、それ以前の、12年間の絶望的な<対日>抵抗戦争におけるより大きな大虐殺(carnage)、及び、同様に容赦なき内戦、と釣り合うような形でやってのけた(set off against)のは一体どうしてなのか、だ。
宣教師達は、牢獄の中で大人数の「統計学者達」と一緒だった。
というのも、中共より前の<国民党の>政府は、統計集を自分の暴虐的秘密警察の隠れ蓑に使ったからだ。
だから、1949年より前の<国民党の>政府のデータは全て極めて疑わしいわけだが、1949年以降の<中共の>データだってさほどマシではない。
<だから、処刑数の確かなところは容易に掴めないのだが、>朝鮮戦争における100万人近い、その大部分が不必要であった<中共軍兵士の>死者の数は、数的にははるかに少ないけれど、より錬度が高い諸敵に巨大な数<の中共軍兵士>がぶつけられた結果であることを忘れてはならない。<かくも、中共では人々の命は安かったのだ。>・・・
<中共初期の>牢獄群は、とりわけ宗教関係者で溢れかえっていた。
多くは、当時における法輪功である、一貫道(Yiguandao)<(注80)>の構成員であると名指しされた者達だった。・・・
(注80)I-Kuan Tao。名称は、論語の「吾道一以貫之」に由来。儒教、道教、仏教の混淆的宗教。台湾では、仏教、道教に続く3番目に信者の多い宗教。台湾でも1987年までは禁じられていた。
http://en.wikipedia.org/wiki/I-Kuan_Tao
<現在、>1,800万人の信徒が<中共にいる>という推計もあり、そうだとすると、それは、プロテスタントとカトリック信者の合計の4倍に達することになる。
プロテスタントは政府がコントロールしている統一教会に参加することで自分達の自由を維持することができるが、そのためには教義の見直しをしなければならない。
例えば、原罪の観念は、中国共産党も罪深いという可能性を伴うことから、問題があると見做された。
これは急進的な考えに聞こえるかもしれないが、皇帝が治めていた頃は、国家は精神的裁定(arbitration)を行う無制限の権力を持っていると見られていた。
<例えば、>清の皇帝達は、チベットのラマ僧達の再臨を禁ずる権利を持っていた。」(β)
「思想改革(Thought reform)」は殴打や拷問よりもっと恐怖だった。
ある犠牲者は、感情の滲み出た(telling)言葉だが、「心に対するところの、注意深く洗練されたアウシュヴィッツ(carefully cultivated Auschwitz of the mind)」、とこの過程を描写した。・・・
<ある>イギリス人の通信士・・・は、中共の牢獄での4年間のお勤めの後、「思想改革」をぞっとする言葉で描写している。
「殴られた場合は、自分自身に向き合い、その痛みと戦う場所を心の中に発見することができる。
しかし、思想改革でもって精神的に拷問されると、どこにも行く場所がない」と。
スターリンが1953年3月に亡くなると、当然のことだが、毛沢東は自分自身を無敵であると見た。
彼自身の倒錯した発想でもって、彼は、今や、全球的革命家の筆頭となったのだ。
彼は、自分の諸幻想に、クレムリンの承認を求めることなく耽ることができるようになったのだ。
毛沢東にとっては、それは、あたかも親が亡くなったようなものだった。
この気持ちが、彼により大きな権威と自信を与えた。
スターリンの死は、1950年代末における大躍進で我々が目撃するところとなる、<中共当局による>一層甚だしい非人道的諸行為への舞台を設えたことを、ディコッターは仄めかす。」(Δ)
(続く)
日支戦争をどう見るか(その42)
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