太田述正コラム#6457(2013.9.17)
<啓蒙主義と人間主義(その7)>(2014.1.2公開)
(7)バグデンに対する批判
「<この本の中では、>啓蒙主義の敵の筆頭は道徳哲学者のアラスデア・マッキンタイアであり、非英語圏の啓蒙主義批判者達に殆んど関心が払われていないのは不思議なことだ。
若干の一瞥的言及がリオタール(Lyotard)<(注30)>やフーコー<(前出)>に関してなされるけれど、デリダ(Derrida)<(前出!)>、リクール(Ricoeur)<(注31)>、シュティルナー(Stirner)<(注32)>、ドゥルーズ(Deleuze)<(注33)>やヴィリリオ(Virilio)<(注34)>に関しては皆無だ。」(B)
(注30)Jean-Francois Lyotard。1924~98年。フランスの哲学者[、社会学者、文学理論家]。[ソルボンヌ大学士、修士。後に博士]「急進的なマルクス主義者としてアルジェリアで活動。帰国後、1968年のパリ五月革命に参加。・・・「大きな物語の終焉」「知識人の終焉」を唱え、ポストモダンを流行語にした。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%AF%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AB
http://en.wikipedia.org/wiki/Jean-Fran%C3%A7ois_Lyotard ([]内)
(注31)Paul Ricoeur。1913~2005年。フランスの哲学者。[レンヌ大学士、ソルボンヌ大修士課程の時に召集、後に博士。]「解釈学、現象学、宗教哲学、神学などに業績を持つ。」2000年京都賞受賞。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%AB
http://en.wikipedia.org/wiki/Paul_Ric%C5%93ur ([]内)
(注32)Max Stirner。1806~56年。ドイツの哲学者。青年ヘーゲル派(ヘーゲル左派)の一人。[ベルリン大卒。]「自己を「無」、つまり誰もが迎える「死」という必然によって規定される有限なる主体であることを自覚しつつ、生きていく瞬間瞬間において常に自らが自らを定立し、新たに自己自身(自我)を創造し、被造物である自己をとどまることなく超克する(自己規定を克服する)もの、すなわち「創造的虚無」として捉え<た。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%83%BC
http://en.wikipedia.org/wiki/Max_Stirner ([]内)
ここで、唐突に、時代の全く異なる、しかもドイツの哲学者が登場しているが、この書評子の勘違いミスではないか。なお、この書評子は、パグデンがデリダに言及していることについても見落としている。
(注33)Gilles Deleuze。1925~95年。フランスの哲学者。「数学の微分概念を哲学に転用して、差異の哲学<なるもの>を構築し<た。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%BA
(注34)Paul Virilio。1932年~。「フランスの[文化論家(cultural theorist)]、都市計画家。」[ソルボンヌ大で学ぶ]・・・速度術(ドロモロジー)を鍵概念として、テクノロジーやメディアの発展によって、人間の知覚や行動がどのように変容していくのかを分析している。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%AA%E3%82%AA
http://en.wikipedia.org/wiki/Paul_Virilio ([]内)
→デリダとドルーズとヴィリリオは、アラン・ソーカルらから数学的概念の用い方のいい加減さを批判されています。(コラム#3041、3564、4079)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%AB%E4%BA%8B%E4%BB%B6
(リオタールも批判されたと彼の日本語ウィキペディアには記されているが間違いでは?)
一事が万事であり、この3人に限らず、20世紀後半に活躍したフランスの「哲学者」達の殆んどは、衒学的文学者に過ぎない、と私は考えています。
従って、書評子によるこのようなパグデン批判はナンセンスです。(太田)
「一つの大きな問題は、パグデンの四海同朋主義が、あらゆる宗教に対する剝き出しの敵意に基づいていることだ。
彼は、いかなる「宗教的信条(belief)に係る倫理」であれ、それがなお残っている限り、啓蒙主義プロジェクトは不完全なままであろうと信じている。
<しかし、>いかなる社会も、若干の何らかの形の宗教ないし霊的なこと(spirituality)を伴わずして存在したことがない。
このことは、今日において、「<神という>迷夢から覚めた(disenchanted)」欧米においてすら、正しい。
仮に、新しい四海同朋的な時代の曙は人間事象(human affairs)からの宗教の消滅を待っているのであるとすれば、その待ち時間は極めて長いものとなろう。」(F)
→自然宗教的なものが「宗教」なのか「霊的なこと」なのかは定かではありませんが、イギリス人たるパグデンが、(日本の神道については知らないかもしれないけれど、)イギリス人の自然宗教性が四海同朋主義≒人間主義に抵触するなどと考えているはずはありません。(太田)
「パグデンは、この点を詳説していないが、米国の政治的右派は、啓蒙主義が、神を蔑ろにした(ungodly)ことと伝統と信仰(faith)を掘り崩したこと、に対して古から批判(charge)してきた。・・・
<いずれにせよ、>「人類(humankind)」について語る際には、社会的文化的多様性の現実について見て見ぬふりをするべきだ<、ということであってよいはずがない。>」(G)
(続く)
啓蒙主義と人間主義(その7)
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