太田述正コラム#6475(2013.9.26)
<英国の植民地統治(その6)>(2014.1.11公開)
 (5)大英帝国の負の遺産の克服
 「<この本の>最終章は、<植民地化>の過程のアンチテーゼ、すなわち非植民地化運動を、知的次元及び政治的次元の双方にわたって取り扱う。」(C)
 「マムダニは、ナイジェリアの歴史家であるユスフ・バラ・ウスマン(Yusuf Bala Usman)<(注11)>とタンザニアの初代大統領であるジュリウス・カンバラゲ・ニエレレ(Mwalimu Julius Nyerere)<(注12)>の二人を、植民地的諸範疇の影響に対する解毒剤の可能性があるものとして探索する。
 (注11)《1945》~2005年。ナイジェリア北部のアハマドゥ・ベロ(Ahmadu Bello)大学歴史学《講師(reader)》。アハマドゥ・ベロ大卒、英ランカスター(Lancaster)大博士。著書: “For the Liberation of Nigeria” (1979)、《”The Transformation of Katsina, 1400-1883:The Emergence and Overthrow of the Sarauta Syste and the Establishment of the Emirate”(1981)、》 “Nigeria against the IMF: The Home Market Strategy”(1986)等。[マルクス主義者。]
http://allafrica.com/stories/201209250560.html
http://allafrica.com/stories/200509270306.html ([]内)
http://africa-database.africanseer.com/ad.asp?blurb=87(《》内)
 なお、ランカスター大学はマンチェスター郊外に立地し、1964年創立。
http://www.ukeducation.jp/unilist/lancaster/
 (注12)Julius Kambarage Nyerere([マムダニがMwalimuとしているのは、ニエレレが政治家になる前に教師(スワヒリ語でMwalimu)として知られ、それを通称としていたから])。1922~99年。「現ウガンダのマケレレ大学卒業、エディンバラ大学修士・・・。・・・カトリック教徒。・・・、汎アフリカ主義とアフリカ社会主義の精神に基づいて・・・<アフリカ>各国の民族解放運動を戦うゲリラ組織に支持を与えた。・・・タンザニアの社会主義化を進め、タンザン鉄道の建設などを通じて<中共>との結びつきを強め・・・銀行や企業の国営化などの統制経済により社会の平等化を図<るとともに、>・・・農業の集団化を導入した<が、これらの社会主義的政策はことごとく失敗に終わった>。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%8B%E3%82%A8%E3%83%AC%E3%83%AC
http://en.wikipedia.org/wiki/Julius_Nyerere ([]内)
 しかし、「タンザニア政治<には>、他のアフリカ諸国に多く見られる、特定部族による政権の独占や民族による投票行動が見られない・・・。これは、国内に特別大きな民族グループが存在しないこと、スワヒリ語による初等教育と、教育プログラムに盛り込まれた汎タンザニア史などを通じてタンザニア人としてのアイデンティティ創出に成功したこと、初代大統領ニエレレがウジャマー社会主義建設の過程で旧来の地方組織を解体したこと、複数政党制導入時に民族を基盤とした政党結成が禁じられたことなどが理由となっている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%82%B6%E3%83%8B%E3%82%A2
 「ウスマンにとっては、こ<の植民地としての歴史>の問題から逃れる唯一の方法は、顕著なる民族的にして人種的諸範疇を意識的に脱構築し、ひとたび「[それぞれの]歴史的ダイナミズムを奪われた」諸文化に歴史を回復することによって、それと対決するしかなかった。」(B)
→ウスマンのようなマルクス主義かぶれで当時世界中にゴマンといて害悪を撒き散らした知識人を、何故にマムダニが持ち上げるのか、私には、全く理解できません。(太田)
 「ナイジェリアの歴史家のユスフ・バラ・ウスマンは、植民地後の知識人達の中で屹立している人物だ。・・・
 ニエレレは、タンザニアの国家創建者であり、彼のパイオニアとしての諸改革は、間接統治国家を効果的に非植民地化しただけでなく、そのことによって、我々に、レーニン主義的な国家「破壊(smashing)」のヴィジョンの非暴力的代替物を提供している。
 ニエレレは、彼の諸政策と行い(practice)を通して、異なったものを教えてくれた。
 その第一のものは、植民地国家の背骨と遺産は、軍と警察ではなく、その法的・行政的機構(apparatus)であるということであって、彼は、これらを粉砕するのは政治的理性(reason)であって暴力であってはならない、とした!
 植民地化前の生活、植民地国家の近代形態、及び反植民地レジスタンスという複数の法源から正式な(substantive)法の創造、並びに、単一かつ統一された法強制機関(law-enforcing machinery)の樹立は、タンザニア本土の全市民が単一の裁判システムによって強制されるところの、一連の同じ諸規則に立脚して統治されることを意味したが、マムダニは、これら全てを、包括的な市民権と国民国家の建設に向けてのニエレレの画期的な業績として光を照射する。」(C)
→ニエレレについても、その経済・社会政策は、インドのネール等同様、旧宗主国英国の同時代の労働党的社会主義を猿真似しただけのことであり、(彼が権力者の座にしがみつくことがなかった(彼に係る日本語ウィキペディア前掲)点で当時のアフリカ的水準を大きく超えていたとことだけは評価できるけれど、)私は殆んど積極的評価ができません。
 マムダニはニエレレの経済・社会政策ではなく政治政策を評価しているって?
 では、下掲をお読みください。
 「<植民地化後、>当初、ドイツは<、現在のタンザニア(除くザンジバル)で、欧州>人入植者を優遇する政策をとっていたが、・・・<原住民の>反乱の後、・・・1907年・・・<に創設された>ドイツ植民地省<の>初代長官<の>デルンブルク・・・は植民地政策の重点を少数の<欧州>人保護から現地アフリカ人による農業開発へと移した。
 早くから経済の発展は信頼できる輸送手段に依存すると理解されており、・・・鉄道建設<を>ドイツ国庫からの建設借款により行<い、第一次世界大戦が勃発した>・・・1914年の植民地政府歳入の32%が借款返済に当てられていた。<また、>・・・港湾施設・・・が建設あるいは拡充・・・された。・・・<首都の>ダルエスサラームは全熱帯アフリカの模範的都市となった。
 これらすべての努力にもかかわらず、ドイツ領東アフリカは決して祖国のために利益を上げたというわけではなく、本国財務省からの助成金を必要とした。
 他のアフリカ植民地所有者ベルギー、<英国>、フランスおよびポルトガルとは違って、ドイツは初等学校、中等学校および職業訓練学校の開設といったアフリカ人教育プログラムを施行した。
 教師の採用条件、教育課程、教科書、教材、すべては他の熱帯アフリカのどこにも並ぶものがない水準に達した。
 1924年、第一次世界大戦が勃発して10年後、そして<英国>が<ドイツに代わってタンザニアを>支配してから6年後、現地を訪れたアメリカフェルプス=ストークス委員会は次のように報告している。
 学校に関して、ドイツ人は驚くべきことを成し遂げた。教育をドイツ人が行った水準まで引き上げるには若干の時間を要する。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E9%A0%98%E6%9D%B1%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%AA%E3%82%AB
 すなわち、マムダニが、独立タンザニアの政治的成功の理由をもっぱらニエレレのみに求め、日本的植民地統治に切り替えたドイツ・・本国からの持ち出しによる教育の普及と経済発展がもたらした原住民の間での超部族一体感・・のことを完全に黙殺していることは、極めて問題だと思います。(太田)
 (6)マムダニに対する批判
 「人種と部族<の区分>を本質化した植民地学者達を非難するのは当然だが、植民地主義を単一の全体を括ったイデオロギーに煮詰める(collpse)ことはできない。
 <どんなものについても>一連の見方がそうであるべきように、<植民地化>は、諸観念、諸前提、諸動機の集合体(assemblage)だったのであり、同様、多様な一連の諸結果を創造したのだ。」(B)
→これは、必ずしも間違ってはいない批判ですが、英国による植民地統治(拡大英国に係るものを除く)の過半にあてはまる「理論」を「発見」したマムダニの功績はそれなりに大きい、と言うべきでしょう。(太田)
3 終わりに
 私は、かつて(コラム#4422で)「ドイツによる植民地統治のうち、南西アフリカにおけるそれが一番酷かったということのようですが、一番酷かったところで、各国による植民地統治を比較すべきであると思います。いずれにせよ、そのような形で比較しても、欧米諸国による植民地統治は、いずれも甲乙つけ難いほど酷いものであった、と言って間違いないでしょう。ただし、その中でひと味違っていたのが英国による植民地統治です。」と記したところです。
 ドイツの東アフリカでの植民地統治は全く異なっていたことを今回知るところとなったけれど、基本的に上記の考えを変えるつもりはありません。
 いずれにせよ、問題は、「ひと味違っていた」、つまり、欧米諸国による植民地統治の中では、一番マシであった英国による植民地統治の評価です。
 (ドイツと米国の場合だけは、必ずしも経済的利益目的ではなかったと言ってよさそうですが、)欧米諸国による植民地統治は、おおむね経済的利益目的で行われました。
 かねてから指摘しているように、その中で、英国による植民地統治は、長期的視点に立って経済的利益を最大化する、最も効果的なものであったからこそ、短期的収奪は避けた、という意味でマシであったわけです。
 しかし、所詮それは経済的利益目的であったことには変わりがないのであって、インド大反乱以前の同化政策にせよ、その後の間接統治政策にせよ、本国からの持ち出しなど論外であり、教育投資やインフラ投資は最小限に抑えられました。
 これでは、植民地当局が原住民全体と対峙することとなる同化政策が平穏に続けられるわけがなく、メインのような人物が出現しようがしまいが、それは論理的に、原住民を分断化し相互に対峙させるところの、間接/定義統治・・いわば、究極の手抜き統治・・に移行せざるをえなかった、と言えるでしょう。
 (例えば、フランスは、この論理に従って間接統治に移行することなく、反乱の類を未然、及び事後に力で抑え続けつつ、無理矢理同化政策を続けた、と言ってよいでしょう。その結果が、激しい第一次ベトナム戦争であり、アルジェリア独立戦争でした。)
 こんな手抜き統治を行っていた大英帝国など、一刻も早く瓦解させるべきだったのですが、対露抑止が至上命題であった日本にとって、全ユーラシア大陸において対露抑止戦略を遂行していた英国とは協力せざるをえず、結局、日本が大英帝国を瓦解させるチャンスは、先の大戦において、ようやく巡ってきた、ということになります。
 しかし、時はまさに遅すぎ、日本によって崩壊させられたところの、大英帝国の元植民地であったアジア・アフリカの殆んどの地域において、独立の後、英国による間接/定義統治の後遺症であるところの、広義の(英国による被造物たる)諸部族の間の紛争や戦争が絶えることなく、また、旧日本帝国諸国や毛沢東死後の中共に比べて経済パーフォーマンスに遜色があるまま、現在に至っている、というわけです。
(完)