太田述正コラム#6493(2013.10.5)
<アブラハム系宗教非存在論(その4)>(2014.1.20公開)
–キリスト教–
「「神の子供達は」、ユダヤ教徒達のような「神の子供達は肉体的な意味での子供達」ではなく、「約束の意味での子供達なのだ」とパウロは新約聖書の中で宣言する。
ユダヤ教徒達自身は、その他の人々はともかく、福音書の中<に込められているところ>の信仰(faith)を信じなかったところ、それを信じるかどうかが、人が、アブラハムの子孫になるか諸約束の相続人(heir)になるかを決する、と。」(A)
「キリスト教は、ユダヤ教とあい交わりながら一緒に進化したが、自身が選民であるとの信条(faith)を、<ユダヤ教徒のように>ヘブライ聖書、すなわち旧約聖書からだけではなく、新約聖書からも引きだした<点がユダヤ教と異なる>。」(B)
「初期のキリスト教徒達が非ユダヤ教徒を自分達の諸コミュニティに含め始めるや、アブラハムの血統である(descent)かどうか、例えば、<血統であれば遵守しなければならないところの>ユダヤ法を遵守しているかどうか、が問題となった。
イエスの真の追随者(follower)はユダヤ教徒でなくてもいいのだろうか<、というわけだ>。
パウロと他の初期のキリスト教徒達は、この問題を、アブラハムとアブラハムの血統の意味を再想像することで解決した。
<すなわち、>パウロは、アブラハムは、<ユダヤ教徒の、割礼等の>法がまだ与えられていない時点においてすらパラダイム的な人間であることにしたのだ。
その信仰<のみ>によって、アブラハムは救われたのだ、と。
非ユダヤ教徒たる(Gentile)キリスト教徒達は、アブラハムの範例に追随すればよいこととされた。
彼らは、<ユダヤ教徒の>法を受け入れたりしたり、その約束を承継する(inherit)ためにアブラハムの「物質的な(material)」血統であったりしたりする必要はない、と。
実際、誰も<ユダヤ教徒の>法が要請しているものの全てに<厳格に>従うことなどできない以上、それをしなければならないとすれば、<人類>全員が<法に違背したという>罪(sin)によって穢されて(taint)いることになろう。
ユダヤ教の法に従って(in accordance with)悔悟したところで、誰もこの穢れから解放(relieve)などされない。
イエスの神格(divinity)と神の(His)力についての信仰(faith)だけが罪の報いを回避させることができる、と。
<また、神の>約束とは、<ユダヤ教のように>土地と子孫(progeny)ではなく、イエスと共にするところの、天に係る(heavenly)死後の(post mortem)生活になった。
初期のキリスト教徒達の目からは、イサクがもうちょっとで犠牲になるところであったことは、アブラハムの信仰を示すものであるとともに、神がもうけた唯一の息子であるイエスに関する神の犠牲・・イサクは死ななかったけれどイエスは死んだので、その犠牲はより大きなものだったが・・を前もって示すもの、となった。・・・
<もっとも、>うれしいことに、<その後の>カトリック教会と一定の他のキリスト教諸教会は、<初期のキリスト教のように、>信じているキリスト教徒達だけが救われうる、とは、もはや主張していない。」(D)
(4)結論
「レヴンソンは、「我々が、ユダヤ教、キリスト教、及びイスラム教から独立しつつ、同時にこの三つの宗教に対して権威のあるところの、中立的なアブラハムを回収(recover)できるとの仮定は…まことにもって保証の限りではない、と記す。・・・
<そこで、書評子たる>私は、・・・<アブラハム系に代わって>モーゼ系(Mosaic)という言葉を使うのはいかがであろうかという問題提起をしたい。
モーゼなら、この3つの<宗教の>聖典の全ての中に出てくる<だけでなく、この3つの宗教の信徒が共通に遵守すべき道徳群たる十戒を神から授かった>からだ。」(C)
3 終わりに
信徒達をアブラハムの子孫とするユダヤ教やアブラハムを大預言者の一人であったとするイスラム教に比し、キリスト教におけるアブラハムの位置付けは曖昧であり、その限りにおいて、キリスト教も含めてこの三つの宗教をアブラハム系宗教と呼ぶことには問題がありそうです。
しかし、出現時期こそずれているけれど、それぞれの出現当時には一神教は珍しかったところ、一神教なるが故に、3つの宗教とも選民意識を共有し、従って敵味方峻別論に立つが故に暴力的であり、それに加えて、終末論/救世主思想を共有するが故に狂信的である、という種々の共通点を有することから、便宜的にこの3つの宗教をアブラハム系宗教と呼んで一括りにするのも、一つの見識であると思います。
このうち、ユダヤ教は、血統主義であるために広まらなかったのに対し、キリスト教とイスラム教は、激しい勢力争いを展開しながら、それぞれ勢力を伸ばしてきました。
これは、私見では、あえて厳しい言葉を使えば、(利他主義を説くことに由来するところの)双極性障害的な宗教と(ユダヤ教に比べて、その内容こそ微妙に異なれ、神の定めた法と道徳を墨守する傾向の強いところの)無知蒙昧的な宗教との間の不毛な勢力争いであって、現在、キリスト教が欧州において著しい退潮傾向にあることは嘉すべきものの、この二つの宗教が最も角突き併せているアフリカにおいてキリスト教とイスラム教の双方がなお信徒数を増やしていることはアフリカの人々にとって遺憾なことである、と思います。
(そのアフリカで、イスラム教の信徒数の伸びの方がキリスト教のそれの伸びより大きいことについては、我々のようなアブラハム系/モーゼ系宗教とは基本的に無縁の衆生としては、嘉すべきなのか遺憾に思うべきなのか、難しいところです。)
(完)
アブラハム系宗教非存在論(その4)
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