太田述正コラム#6497(2013.10.7)
<日本の「宗教」(その2)>(2014.1.22公開)
(2)宣伝文句に対する感想から
「諸社会は、宗教の観念(idea)が意味をなさない形での再形成(reconfigure)ができるのかもしれない。
興味深いことに、米国の砲艦群が日本の孤立を破った後に、19世紀の日本で、逆の過程が起きたように見える。
シカゴ大学出版会から最近出版された<ジョセフソンの>本によれば、その時まで、日本社会には「宗教」の概念がなかった。
その後、近代化の一環として、若干の社会的諸慣行や諸信条(belief)が「宗教的」として選択され(carve out)、残余は、「非宗教的」として分類された<、というのだ>。
この説明が、17世紀におけるキリスト教の広まりとそれ以降の何世代にもわたる<同教に対する>殺人的な抑圧、とをどう<整合性のとれた>説明をするのかを私は知らない。・・・
しかし、<大昔の日本で起こったと考えられる?(太田)>この<宗教観念の消滅?(太田)>過程はもっともらしく見えるし、この過程のようなものが、今日の世界の中で「世俗化しつつある」諸部分において働いているように見える。」(B)
→日本には、「宗門」という言葉はありましたが、「当初、幕府はキリスト像が刻まれた板を踏ませる踏絵や密告の奨励(後の訴人報償制)などをキリシタンの取締りの基本とした。やがてキリシタンではないことを仏教寺院に請け負わせてその証明とした寺請制度を創設する。・・・1637年・・・からその翌年にかけて九州でおきた島原の乱の後、・・・1640年・・・に幕府は宗門改役を設置する。・・・1664年・・・に諸藩に宗門改制度と専任の役人を設置するよう命じ、これ以後、宗門改帳が各地で作成される<こととなった。>・・・寺請制度が完成するのは・・・1671年・・・に宗門人別改帳が法整備されてからで、これ以降、武士・町民・農民など階級問わず民衆は原則として特定の仏教寺院(不受不施派を除く檀那寺、藩によっては神社もあった)に属することが義務とな<った。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E9%96%80%E6%94%B9
という史実が示しているように、「宗門」とは、「同一宗教の中での分派。宗派。宗旨」http://kotobank.jp/word/%E5%AE%97%E9%96%80
であって、「同一宗教」は、おおむね仏教を指していました。
日本には、この仏教(狭義の宗門)及び神道(広義の宗門)と、キリスト教的な宗教とを括った言葉、概念が存在しなかった、という意味では、ジョセフソンの言うとおりです。
ただし、それはやむをえない面がありました。
仏教は本来的には無神論ですし、神道は教義を持たないのですから、キリスト教的な有神論でかつ教義を持つ、religionとは、性格が全く異なるからです。(太田)
(3)この本を使った別人の授業要綱から
「比較する観点からすると、現代における多くの日本人の自分達のペット達との関係は、<ペットの>死に際してさえ、人間の家族の成員達のそれに近い。
ペット霊安室(mortuary)<の存在等>の諸慣行も、社会の変化しつつある諸需要に応えるために適応する現代の日本の諸宗教における現在進行形の諸変化を示している。
宗教は、とりわけそのアブラハム的諸文脈の中では、人間に焦点をあてたもである、としばしば考えられてきた。
それは人間の超自然的他者との邂逅に関するものだ、と<しばしば考えられてきたのだ>。
<だから、>この<日本が>辿っている道は、宗教的儀式慣行についての<欧米における>共通の諸前提への挑戦だ。
日本の霊安室に係る諸儀式(rites)に関しては、それらは以前にはもっぱら人間のために意図されたものであったけれど、それらに、宗教の及ぶ対象(reach)が拡大されて動物達が含まれるようになってきたことは、人間と動物との関係が顕著な変化(shift)をきたしている最中であることを示す一例だ。
→「ペットの供養自体は古くから行われており、例えば縄文時代の遺跡から犬の埋葬跡が発見された事例がある(ペット、柴犬、縄文時代も参照)。これらは居住区の近くに土葬をするのが通常であった。また古代エジプトでは猫のミイラも発見されており、愛着のある・あるいは道具として役に立った動物を、丁寧に葬る習慣は世界各地で見出される。・・・欧米でもペット霊園への埋葬といった風習もみられ、こちらは土葬ではあるが、専用の棺や、あるいはエンバーミングすら見られる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%83%E3%83%88%E4%BE%9B%E9%A4%8A
以上を踏まえれば、この「別人」の言っていることには首を傾げざるをえません。
だから、これらの諸慣行を研究することは、宗教的慣行の本質(nature)について、そして、宗教が人間にとっていかなる意味があるかについてさえ、根本的な諸疑問を提起することだ。
<授業の中で、>最後に、我々は、<日本の>マンガやアニメの諸作品の中で明白に宗教的な内容が演じる役割を完全に明瞭に表現する(articulate)ことはできないものの、我々は、これらの手練の(master)物語叙述者達が宗教的イメージ(imagery)と言葉を彼らの物語群の中で活用(deploy)する様々なやり方に関し、何かとりわけ我々の心を揺さぶる(compelling)ものについて、探索するだろう。
我々は、一見単純な質問を投げかけるだろう。
日本の明白にして(evident)強烈な世俗主義に照らした時、どうして、マンガとアニメにおいて、明白に(apparently)宗教的な諸主題がかくも数多く<登場し、>かつ人気があるのか、という・・。
我々は、これらの明白に宗教的な諸主題・・公式の宗教的イメージを無頓着に充当したものから聖なる聖人伝群と宗教的諸教義のお説教的詳細説明群に至る・・が、果たして、そしていかに、<日本の?(太田)>人々の日常所生活や諸世界観に影響を与えているか、を探索するだろう。
かくして、マンガとアニメ文化は、公式の宗教諸制度とそれぞれの教義の諸境界において存在するところの、現代日本における宗教の諸様相を暴露(reveal)する。
これらの影響力あるメディアの制作と受容は、フィクション上の登場人物達や空想的な(fanciful)諸観念が<日本の?(太田)>聴視者達を鼓吹し、彼らの世界観に影響を与えることができる様々なやり方の刺激的な諸事例を提供する。」(C)
→キリスト教的な宗教なくしても、道徳観や世界観(社会観・人間観・自然観・宇宙観)が成立しうることくらいは、西におけるストア派
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A2%E6%B4%BE
や、東における儒教の存在から、ジョセフソンらにとっても常識であるはずですが、この「別人」は、日本人は、ストア派や儒教とは一味違う、「宗教」的な道徳観や世界観を抱いていること、に気付いているわけです。
私は、二箇所、「日本の?」という注釈を入れたわけですが、ひょっとすると、この「別人」は、「世界の」と言いたかったのかもしれないと思ったので「?」を付した次第です。
私としては、日本のマンガとアニメの多くが、その「宗教」的内容でもって、視聴した世界の人々に大きな影響を与えつつある、と信じたいところです。(太田)
(続く)
日本の「宗教」(その2)
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