太田述正コラム#6517(2013.10.17)
<バングラデシュ虐殺事件と米国(その8)>(2014.2.1公開)
 (6)バスに対する批判
「バス氏は、インドの諸文献に分け入ったりインドの主役達にインタビューすることによって、ニューデリーにおける逆上した雰囲気と動きの様子を我々に教えてくれる点で良い仕事をした。
 <ただし、>彼が、ベンガル人難民達の苦境に対する人道主義的諸懸念からインディラ・ガンディー首相と彼女の政府がパキスタンとの戦争に赴いたというインドの神話に完全に肩入れしているわけではないことは、褒めておかなければなるまい。
 バス氏は、インド人達が、<これが、>パキスタンを解体し、弱体化させ、そして恐らくは破壊する<良い>機会である、という動機も少なくとも同程度は持っていたことを十分理解している。・・・
 <しかし、>バス氏は、東パキスタンにおける諸出来事に対するソ連や中共の考えのどちらについても、説明や研究を行っていない。
 よりがっかりさせられるのは、彼が、この危機に対処しようとした西パキスタンの将軍達や政治家達の間にあった考えについて、ほんのわずかの諸分析も提供していないことだ。・・・
 <一番問題なのは、>バス氏は、<本件での>米国の政策形成に及ぼしたありとあらゆる諸要素への目配り(credit)はしているけれど、ニクソンとキッシンジャー氏を導いたところの諸原則に対する目配りが不十分<である点>だ。
 <その諸原則とは、>同盟諸国に対する忠誠であり、また、他国の内政に干渉することの忌避、だ。
 (彼らは、明らかに、ヴェトナムを内部闘争というよりは共産主義者による侵略戦争と見ていた。)
 パキスタンは長きにわたる同盟国であり、東パキスタンにおける闘争は、インドが侵攻するまでは内戦だった。
 現在では米国の外交政策を導く諸原則など全くないように見えるだけに、このことを理解するのは容易ではないこともあり、バス氏はこれらの諸原則をお好みでないのかもしれないが、これらが当時の米国の政策の根底にあったのだ。
 1971年12月にインドが東パキスタンに侵攻した時、ニクソンとキッシンジャー氏は、大国の指導者らしくふるまった。
 すなわち、彼らは、ソ連に関与するなと警告を発し、密かにヨルダンとイランからパキスタンに若干の軍用機群を運び込み、密かに中共に若干の部隊群をインドの北方国境に結集させるように示唆し、ベンガル湾に一隻の空母を派遣した<のだ>。
 これらの動きのどれも、インドによる東パキスタン侵攻と占領を止めることはなかったけれど、恐らく間違いなく、この瀬戸際政策が十分に強いメッセージだったおかげで、インドが西パキスタンに対する全面攻撃の危険を冒すことを防いだのだ。
 バス氏のような米国の政策に対する批判者にとってさえ、ニクソンとキッシンジャー氏がより抑制された親パキスタン政策を追求したり、相争う両者間で揺れ動いた場合に、何か得るものがあったかについて、読者達を納得させることは容易でないだろう。
 <米国政府による>リベラル的諸良心<の発揮>は確かに心を慰めてくれたことだろうが、それ以外に何が得られたというのだ。
 パキスタンに対する公然たる批判、パキスタンの将軍達の腕の若干のねじりあげ、わずかでしかなかった米国による<対パキスタン>援助の停止、といった類の、バス氏を喜ばせたであろうところの諸措置(steps)が、領土的一体性と国家的生存をかけた死の闘争に従事していたと自らを見ていたパキスタンの軍事体制に対して、ほんの少しでも効果も及ぼしたと想像するのは困難というものだ。
 優柔不断な米国の政策もまた、非効果的であったことだろう。」(D)
→これは、自分の舌を噛むようなとんでもない批判です。
 ニクソン/キッシンジャーの対外政策(の手法)に一貫した原則などなかったからです。
 まず、「同盟諸国に対する忠誠」については、1973年1月27日に、ニクソンは北ベトナムとの間でパリ協定を締結しますが、この締結に署名させられた、米国の同盟国たる南ベトナムの政府は、「北ベトナム軍は自身が実効支配している南ベトナム内の領域から撤退する必要がなく、米軍のベトナム撤退が重なることで北側が協定を違反した場合に攻勢を食い止める力がなかった」ために、この「協定に反対」したにもかかわらず米国に押し切られたのです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AA%E5%8D%94%E5%AE%9A_(%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0%E5%92%8C%E5%B9%B3)
 その結果が、1975年4月30日のサイゴン陥落による北ベトナムによる南ベトナム併呑でした。
 これは、同盟国に対する裏切り以外の何物でもありませんでした。
 また、「他国の内政に干渉することの忌避」については、1970年9月にマルクス主義者のサルバドール・アジェンデがチリの大統領選で第1位になると、ニクソンは、最初、僅差の2位であった候補者を議会で大統領に指名するよう働き掛けて失敗し、アジェンデが大統領に就任すると、今度は軍部にクーデターを働きかけるとともに、カネでもってアジェンデ反対派を煽り立て、全国でストを行わせたりし、最終的に1973年9月11日に軍部にクーデターを敢行させることに成功し、アジェンデを自殺に追い込みました。
http://en.wikipedia.org/wiki/Richard_Nixon
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%87
 選挙に基づき、正規の手続きを経て成立した政府を転覆したのですから、これ以上の内政干渉はないでしょう。
 ちなみに、ニクソンの大統領辞任は、1974年8月9日のことです。(ニクソンのウィキペディア前掲(以下、「N」と記す))
 なお、私は、もともとインドには西パキスタンに全面攻撃を仕掛ける意図など皆無であったと見ています。
 その根拠は、インドが東パキスタンをどう扱ったかです。
 東パキスタン「解放」以降のインドに、同地を併合する下心があったならば、ああ簡単に、占領地におけるバングラデシュなる国家の独立を認めはしなかったはずです。
 インドは、ただでさえ、貧困と複雑な民族/カースト構造を抱えて内政面で問題が山積しており、そんなところへ、更に、インド人一般より更に貧しいイスラム教徒を何千万人も抱え込むようなことには拒否反応があったと考えられます。
 基本的に同じことが西パキスタンについても言えます。
 すなわち、インドには、西パキスタンについてもまた、併合する下心など皆無であったとすれば、同地を全面攻撃する意義がそもそもなかったはずである、ということです。
 ニクソン/キッシンジャーが本件でとった諸措置は、最悪の事態を想定し、それを回避するために万全を期したものであった、と解することができるのです。(太田)
3 終わりに代えて
 さて、最後に、お約束のブラッドの外交官としての能力についてです。
 優秀な外交官は、任地の事情に詳しくなければ話になりませんが、より重要なのは、任地の事情を、自国の全球的視点に立った国益に照らして分析し表現する能力です。
 当時における全球的視点に立った米国の国益が何であったかを考えるにあたっては、まず、米国政府、すなわちニクソン/キッシンジャーの国益観を推測し、理解する必要があります。
 その上で、この外交官が、かかる国益観に照らし、自分の現任地に係る米国政府の政策が整合性がとれていないと批判したり、或いは、自分がこれまでのキャリアや勉強を通じて到達したところの、これとは異なった国益観を対置させることでもって政府の国益観そのものを批判するのが筋というものです。
 しかし、私の見るところ、ブラッドは、(そして、この本を書いたバスも、)ニクソン/キッシンジャーの国益観を全く理解していなかった、いや、理解しようとさえしていなかったのではないでしょうか。
 彼らの国益観は、米国の力の相対的低下に伴い、米国のあらゆる対外政策を省力化させる、というものでした。
 (これは、当時だけでなく、現在でも、いや、現在においてはより一層、適切な国益観であると私は思います。)
 時系列を無視して思いつくままに挙げますが、彼らによるところの、アジェンデ政権の調略による打倒(近くの容共小政権への敵対)、南ベトナムからの撤退(遠くの共産主義小政権との宥和)、中共との国交回復/中ソ離間策(大敵の分断)、ソ連とのデタント(主大敵との宥和)、ニクソンショック(ドル兌換性の停止)、ニクソンドクトリン(同盟諸国の自立促進)(以上Nによる)・・日本「独立」促進(沖縄返還、欧州訪問のためにアラスカのアンカレッジ国際空港に寄港した昭和天皇に現地に赴いて懇談)を含む・・、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%8B%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%83%B3
等は、かかる国益観に基づき、「外交政策を導く諸原則など全くない」リアリスト的手法でもって、実施された諸政策だったのです。
 なお、ニクソンが、いかに「諸原則など全くない」超リアリストの政治家であったかは、彼が違法なウォーターゲート事件を引き起こし、それが自身の失脚につながったことが端的に物語っています。
 ブラッドが、このようなニクソン/キッシンジャーの国益観と手法を理解しておれば、人道主義的観点という一原則偏重のあのような電信を連名中の筆頭者として送付するはずがないでしょう。
 何の効果もなく逆鱗に触れるだけであることが、読めたはずだからです。
 従って、バスや多くの書評子の見方とは違って、ブラッドは無能な外交官であった、というのが私の結論です。
 誤解のないように付け加えておきますが、私は、ニクソン/キッシンジャーの国益観を支持するとともに、彼らのあこぎな手法も否定しないけれど、あこぎ過ぎて、国際法や国内法を無視した行為が多過ぎたことには強い批判的な気持ちを抱いているところです。
(完)