太田述正コラム#6531(2013.10.24)
<大英帝国の崩壊と英諜報機関(その6)>(2014.2.8公開)
ク 総括
「「大英帝国は、秘密の帝国だった」とウォルトンは結論付ける。」(E)
「ウォルトンは、英国の帝国からの撤退は、「一般的には相対的に円滑で成功裏」に行われたと見ている。
とりわけ、フランス、オランダ、そしてベルギーの「無秩序な撤退」と比べて・・。
→英国のように、植民地から逃亡するだけなら、どんな国でもできます。
フランスやオランダのように植民地にしがみつくなどというのは論外ですが、後は野となれ山となれの英国も無責任極まる、と非難されてしかるべきでしょう。
もとより、植民地から逃亡するまでの植民地「統治」が著しい手抜き統治であったところに根本的問題があるわけですが・・。
インド亜大陸、中東(イラク、パレスティナ等)、アフリカの旧英領諸国が辿った苦難の戦後史を思い起こしてください。(太田)
その若干の部分は、これらの年々において「意匠を凝らした足さばき」を披露したところの、保安局<(MI5)>に負っている。・・・
不可避的に、同局は、パレスティナ委任統治領、マライ、ケニヤ、そしてキプロスでの英国の統治に対して燃え上がった叛乱と戦う際に大きな貢献をした。
例えば、黄金海岸(Gold Coast=ガーナ)のクワメ・エンクルマ(Kwame Nkrumah)<(注16)(コラム#1691、4212)>やケニヤのジョモ・ケニヤッタ(Jomo Kenyatta)のような、将来のナショナリストたる指導者達に関して集められた諜報は、MI5をして、英国が<自分の>元諸植民地をソ連の手先(stooge)に熨斗付で渡しているとの恐怖を宥めることを可能にした。・・・
(注16)1909~72年。「ガーナ初代大統領。ガーナの独立運動を指揮し、アフリカの独立運動の父といわれる。マルクス主義者。」米リンカーン大卒、ペンシルヴェニア大修士(教育学・哲学)。1945年5月からは英国に滞在。1947年12月に帰国。1952年、黄金海岸首席大臣(政府事務主席)。1954年同自治政府首相を経て、1957年には国連信託統治領トーゴランドと統合した形で英国からガーナという国名で独立し、同国の初代首相に就任、「巨大プロジェクトの推進や機械化された大規模集団農場の設立、政府系企業の設立などを中心とした国家主導型の開発政策をと」り、1964年1月には野党を禁止し、ガーナを一党独裁制国家とした。「1966年2月24日、北京とハノイへ外遊中に、CIAに支援された・・・軍事クーデターが起こり、エンクルマは失脚」する。「政治理論としては、パン・アフリカ主義最大のイデオローグの一人であり、アフリカ社会主義に基づく社会建設を目指した。また、新植民地主義の命名者であり、最初の提唱者の一人として知られる。・・・レーニンの帝国主義論の影響を受け<ている>。外交面では非同盟主義の中心人物の一人・・・。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AF%E3%83%A1%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%83%9E
→彼が滞在していた当時の米国がソ連と蜜月関係にあったこと、戦前から戦後にかけて、宗主国たる英国でも知識人の中に共産主義の影響を受けた者が少なくなかったこと、がエンクルマをスターリン主義者に仕立て上げたのだと私は思います。(太田)
ウォルトンは、例えば、1940年代のパレスティナで作戦行動を行ったユダヤ人テロリストたるギャング達を「自由の戦士達」と称えられるべきであるとの観念には同調しない(have no truck with)。
同様、彼は、英国によるマウマウ団員達の大量勾留とソ連の強制収容所制度とを<同じ次元で>比較しようとするいかなる試みについても、「不適切である」として拒絶する。・・・
<ただし、>英国は、1950年代のマライでのテロリスト達に対して、「即射殺(shoot to kill)」政策をとった。・・・」(A)
「しばしば、「諜報」は、適用すべき最後の言葉だった<。すなわち、諜報の出番以前の、英国政府の政策の良し悪しが鍵だった>。
最初に持ち上がったのはパレスティナ<問題>だったが、「<英国政府の政策が妥当性を欠いたために、当地に係る>諜報戦争で英国は敗北した」。
次に持ち上がったのはインド<問題>であり、「<英国政府による>ひどい管理不行き届き物語(a story of gross mismanagement)」というレッテルをウォルトンが貼ったところのものが余りに不適切であったがために、MI5が抱いていた、ジャワハルラル・ネールが容共であると想像されたところの、置き違えられた<、しかし全くの的外れでもなかった>強迫観念<に基づいてなされた諸工作>でさえも、インドがソ連に引き寄せられていくことを防止することはできなかった。」(B)
→以前にも記したことがありますが、ネールは、宗主国であった英国の労働党の戦後直後の社会主義政策を忠実に模倣した、と私は見ています。
そして、ネールが社会主義政策をとったこと、それ自体が、インドをソ連に引き寄せたのです。(太田)
「諸植民地が行列をして独立へと向かっていた中で、<英国の非植民地化の>やり方は、殆んど定型化するに至った。
そのため、諸教訓は殆んど学ばれることがなかった。
例えば、アデン(Aden)では、ナショナリスト達が、現地アラブ人化した特殊<諜報>部門(Arabised Special Branch)を標的にすることで、<英本国と現地との>全般的保安協力の欠如に起因する諸問題を一層悪化させた。<(コラム#6266参照)>
その隣国のイエメン(Yemen)では、元SIS<(MI6)>要員や元SOE<(英特殊部隊)>要員が、この亀裂の中に割り込んで、親英的(pro-royalist)傭兵部隊を作り上げた。
それは、<後に活躍することとなるところの、>英国の諸利害や交易を守るという旗幟を掲げた私的保安諸企業の前駆者であると言えた。」(C)
「ウォルトンは、<この本の中で、これまで諜報機関に余り光が照射されてこなかったという>偏りを是正するため、インドとパキスタン(の分離に伴う諸惨事は無視されているが、そ)の独立過程、パレスティナ委任統治領における明らかに解決不能の危機、マラヤ緊急事態、マウマウ運動(campaign)(、そしてアフリカにおけるその他の非植民地化の諸行為)、アデンとその他の場所、における<英>諜報諸機関の活動を浮き彫りにすることに取り組んだ。
MI5と<大英帝国中に>広く分散していたその英帝国現地統括者達(desk officers)は、これら全てに緊密に関与しており、ウォルトンの分析によれば、その記録を見るに、成功もある一方で大きな失敗もある。
予期できると思うが、英国は植民地の多くの政治家達を詳細に監視し続けた。
とりわけ、彼らが英国共産党(British communist party)<(注17)>と関係があった場合は・・。
(注17)Communist Party of Great Britain。1920年から1991年まで存続。党員数は1943年の6万人が最高。ソ連の解体を契機に解党。
http://en.wikipedia.org/wiki/Communist_Party_of_Great_Britain
何らかの形で、彼らのうちの多くは、この党と関係があった。
しかし、ウォルトンは、極めてしばしば、MI5は、これらの人物達の多くの政治的傾向に関して、はるかに冷静で道理にかなった評価を行ったことを示す。
<それに比べると、>今や人口に膾炙している概念だが、政治屋達は、一見書類(dossiers)を「面白くする(sex up)」傾向があり、彼らは英帝国のベッド群の下にアカを見つけ、そのことを非植民地化諸運動(campaigns)と結び付けること、そしてこれが枢要なのだが、米国を<英国の>味方にし続けること、に熱心だった。
かくして、ケニヤッタやバンダ(Banda)<(注18)>のような、そうは思えない人物達が、彼らがミエミエに(transparently)そうでない場合にすら、共産主義者であると描写されたのだ。」(D)
(注18)Hastings Banda。1898~1997年。1961年から1994年にかけての、ニアサランド(Nyasaland)とその後継国家たるマラウィの指導者(首相、大統領)。後にマラウィを一党独裁国家にし、自らを終身大統領にした。6,000~18,000人の人々が彼の下で司法手続き外で殺害された。しかし、親欧米政策をとり、女性の地位を向上させ、インフラを改善し、他のアフリカ諸国よりも優れた教育制度を維持した。南アの鉱山で働いたりした後渡米し、苦学し、シカゴ大学を卒業。更に医学校に学び、医師の資格を得る。更に、渡英してスコットランドで英国の医師の資格も得る。1958年に帰国。
http://en.wikipedia.org/wiki/Hastings_Banda
(続く)
大英帝国の崩壊と英諜報機関(その6)
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